機関車と発電設備の大型化。オリジンパークへ行ってきた。その5

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たまーに写真撮影可の博物館、例えば『スガノ農機「土の館」トラクタ博物館』であったり『明治150年記念、日本を変えた千の技術博』の話になったりします。今日は先日行ってみた日立市の大甕(おおみか)にある日立製作所の企業ミュージアム「日立オリジンパーク」に行ってきましたその5。今日は機関車と発電設備の大型化の展示です。

鉃道車両の国産化に挑む 1872年、新橋〜横浜間に初めて鉃道が開通した。明治期に国内の鉄道網が拡がり始め、国内でも鉄道事業が動き始める。日立は久原鉱業所の傘下にあった当時、久原鉱業所の事業再編に伴い、山口県下松にあった日本汽船笠戸造船所を譲り受ける。笠戸造船所には、小平の後輩で、機関車製造の第一人者でもある古山石之助がいた。小平曰く「引っ掛りがあれば何でもやって見る性分」から、機関車製造への道が開かれる。と書かれています。流石にデカすぎる機関車は展示していないので、少し寂しい感じです。
鉃道車両の国産化に挑む
1872年、新橋〜横浜間に初めて鉃道が開通した。明治期に国内の鉄道網が拡がり始め、国内でも鉄道事業が動き始める。日立は久原鉱業所の傘下にあった当時、久原鉱業所の事業再編に伴い、山口県下松にあった日本汽船笠戸造船所を譲り受ける。笠戸造船所には、小平の後輩で、機関車製造の第一人者でもある古山石之助がいた。小平曰く「引っ掛りがあれば何でもやって見る性分」から、機関車製造への道が開かれる。

と書かれています。流石にデカすぎる機関車は展示していないので、少し寂しい感じです。
第一号蒸気機関車の図面とその銘板。真鍮製ひし形の第一号蒸気機関車の銘板には笠戸製造と書かれています。
第一号蒸気機関車の図面とその銘板。真鍮製ひし形の、第一号蒸気機関車の銘板には笠戸製造と書かれています。
右上のキャプションには1924国産初の大型電気機関車 ED15形電気機関車 鉄道省で東海道線の電化計画が立てられたが、国内では大型電気機関車の製作経験がなく、外国製品を輸入する方針であった。小平は速やかに国産化するべきであると決心し、自主制作に着手した。機械部分は笠戸工場、電気部分は日立工場で分担製作したが、鉄道省がある東京も含めた3拠点間で製作を進めていくのは多くの困難があった。苦労を重ね完成した車両は試運転の結果も良好。海外と異なる企画で電気機関車を国産化したことは海外でもニュースになり、米国の新聞でも絶賛された。とあります。また、左の写真には、59トン大型電気自動車FD15形 日本ではレール幅が諸外国より狭いため、独自の研究を積み重ね、完成に至った。ED15形の完成により、電気機関車はすべて国産化されるようになった。と注があります。
右上のキャプションには

1924
国産初の大型電気機関車
ED15形電気機関車

鉄道省で東海道線の電化計画が立てられたが、国内では大型電気機関車の製作経験がなく、外国製品を輸入する方針であった。小平は速やかに国産化するべきであると決心し、自主制作に着手した。機械部分は笠戸工場、電気部分は日立工場で分担製作したが、鉄道省がある東京も含めた3拠点間で製作を進めていくのは多くの困難があった。苦労を重ね完成した車両は試運転の結果も良好。海外と異なる企画で電気機関車を国産化したことは海外でもニュースになり、米国の新聞でも絶賛された。

とあります。

また、左の写真には、

59トン大型電気自動車FD15形 日本ではレール幅が諸外国より狭いため、独自の研究を積み重ね、完成に至った。ED15形の完成により、電気機関車はすべて国産化されるようになった。

と注があります。

これも実物は展示されていないのですが、検索してみると近所の日立製作所水戸事業所においてあるような書かれ方をしています。

国鉄ED15形電気機関車
1960年に廃車となった1号機が、日立製作所水戸事業所に静態保存されている。

ウィキペディアより
これがそのED15らしいです。まだ走りそうな感じですよね!
これがそのED15らしいです。まだ走りそうな感じですよね!(写真もウィキぺディアより)
関東大震災と日立 1923年9月1日、関東大震災が東京を中心とした京浜地帯一帯に壊滅的な被害をもたらす。日立も本社、亀戸工場が被害を受ける。この震災により、京浜地区にある同業他社の工場は大きな被害を被ったため、日立に全国から注文が殺到したが、小平は「われわれは京浜地方の復興を第一の任務とすべきである。全工場の全能力を発揮して一日も早く復刻を図らなければならぬ」として、損得でなく「誠」を尽して復興に貢献し、日立は信用大いにを高めた。
関東大震災と日立
1923年9月1日、関東大震災が東京を中心とした京浜地帯一帯に壊滅的な被害をもたらす。日立も本社、亀戸工場が被害を受ける。この震災により、京浜地区にある同業他社の工場は大きな被害を被ったため、日立に全国から注文が殺到したが、小平は「われわれは京浜地方の復興を第一の任務とすべきである。全工場の全能力を発揮して一日も早く復刻を図らなければならぬ」として、損得でなく「誠」を尽して復興に貢献し、日立は信用大いにを高めた。

震災とのつながりが良くわかりませんけど、この後大型発電設備の記述に繋がってます。

925 信頼を得て大型発電設備受注へ 1万kVA水車発電機 1920年代に送電網の整備が進むと、発電機も高出力、高電圧の製品の需要が高まっていった。大型製品は未だ輸入に頼っていたが、日立では国産化を目標に製品開発が続けられた。当時の水車は水平軸であったが、高出力化のため、水車と発電機の回転軸は縦軸へと変わった。失敗を重ね苦心しながら縦軸で2台へ平行運転を可能とし、その他送電の安定を図るための諸条件をクリアした発電機を完成させた。 奈川渡発電所に納めた1万kVA水車発電機
1925
信頼を得て大型発電設備受注へ
1万kVA水車発電機


1920年代に送電網の整備が進むと、発電機も高出力、高電圧の製品の需要が高まっていった。大型製品は未だ輸入に頼っていたが、日立では国産化を目標に製品開発が続けられた。当時の水車は水平軸であったが、高出力化のため、水車と発電機の回転軸は縦軸へと変わった。失敗を重ね苦心しながら縦軸で2台へ平行運転を可能とし、その他送電の安定を図るための諸条件をクリアした発電機を完成させた。

とあります。
右の写真は「奈川渡発電所に納めた1万kVA水車発電機」だそうです。

震災で信用を高めたので大型発電設備を受注したよ・・・というつながりだったんですね。ここまでずっと見てきて、画期的な製品ができる前には必ず「苦労の末」とか「失敗を重ね苦心しながら」とお約束のように入っています。

簡単に思ってもらっちゃ困るというのもあるのでしょうけど、苦労とか苦心で片付けちゃうのもかわいそう・・・延べ人数と時間など具体的な数字を入れてみるとか、奥さんと離婚したとか、ストレスで歯が抜けてしまったとか、ちょっと人間臭いエピソードが入るといいですよね!

そういった意味では「土の館」のキャプションはいい感じだったなぁ・・・

機種名:動力耕耘機
形式・仕様:KH25 7馬力
製造社・国:㈱クボタ 日本
導入年度:1956(昭和31)年
使用経過:山武町布部で稲作作業。1954(昭和29)年に鉄車輪の耕耘機を69万円で購入。翌年ゴム車輪が発売され交換する。
このころは、馬が主役で機械はめずらしく付近から賃耕に頼まれ相当稼いだ。
20年間使用後、自家保存されていた。

土の館キャプション

こんな感じで土の館のキャプションは大好きです。特にお金のこと(手に入れた金額や稼ぐこととが)が書いてあるところがすごくいいです。若干下衆な感じが人間臭く感じるし、相当稼いでくれた機械を捨てることができなかったところなどもいい感じです。

もっともっと面白いのもあったのですが、ぱっとは出てきませんでした。

記録品が続く大型発電設備 真川発電所水車はベルトン式として、豊実発電所水車は大きさにおいて、当時の記録品であった。これらの成功は、千手発電所の水車、発電機、変圧器、配電盤、クレーンなど設備一式の受注に実を結んだ。
記録品が続く大型発電設備 真川発電所水車はベルトン式として、豊実発電所水車は大きさにおいて、当時の記録品であった。これらの成功は、千手発電所の水車、発電機、変圧器、配電盤、クレーンなど設備一式の受注に実を結んだ。

3つの写真は右から・・・

1927年
1万3,750kVA水車発電機
(納入先:真川発電所

富山県にある発電所みたいです。

1929年
1万1,000kVA水車発電機
(納入先:豊実発電所)

発電設備
(納入先:千手発電所

だそうです。もうこんな時間!!今日はここまでです。また明日!

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