田植機考古学:田植機年表1968-1975年、ダイキン・ヤンマー-クボタ-イセキ比較

今日も「田植機考古学」。昨日クボタの1968-1975年田植機年表を作ったので、同じフォーマとのダイキン・ヤンマー、イセキの年表と比較してみました。(もちろん、他の会社もやっていたはずなのです。しかし、まだ他社の年表は作っていないのでとりあえず3社のみ・・・)

僕は字面を追って理解するのが苦手、さらに記憶力もないので、どうしても図や絵が欲しくなってしまいます。絵と文字が結びついた段階でやっと中身が理解できる。だから時間がかかってもこういう作業が必要です。

まずは年表だけ並べてしまいますね。年表というものは本来右に伸びて行くものですけど、ブラウザーは横スクロールしません。見にくいと思いますが90度倒して並べます。

並べるとなかなか興味深いです。
1965年から1968年までは暗中模索の時代。おそらく他社が従来の育苗方式を保持しての田植え機を意識していたためでしょう。ダイキンのヒモ苗式が一歩リードしていた感じです。

1968年から1970年までにかけなんとなく方向が定まってきて、ダイキン・ヤンマーは「日も萎え式!」となり、他の2社は逆張りを選択。クボタのSPS型のカタログに「ばらまき育苗」とありましたが、今考えると「繋がっていない」ということでダイキン・ヤンマーの紐苗式と区別した言葉なのでしょう。

島地区でもこの紐苗式のダイキン・ヤンマーを使った話は聞きました。しかし、思うようではなく、「2〜3年でやめちゃった」ということでした。

ちゃんと指導通りやれば、ある程度行けると踏んで売り出されたものですから、うまく行くのでしょうが、新しい方法のストライクゾーンが狭かったのではないでしょうか?他社の選択したばらまき育苗が今も続いているのは、少々いい加減でもできちゃうところにあるのかもしれません。

1970年には1輪2フロート式で先頭に立ったクボタですが、1971年になると二輪1フロート式のイセキの「さなえ」と桜田淳子さんにやられてしまいます。遅れてクボタは林寛子さん、ヤンマーは浅茅陽子さんを採用しますが時すでに遅し・・・

機械の出来もさることながら、親しみやすい愛称と売り出し中のアイドルを使い、それに「音頭」などの音楽までふりかけるという発明で、イセキの田植機を強く印象付けました。

年表の写真を見るとわかりますが、「さなえ」の苗置き台は現在の主流と同じ向きです。ところが他社は1975年までそれとは逆向きを採用していました。

想像ですが「さなえ」が売れる様子を見て、今度は他社が方向転換。「さなえ」の方向をフォローすることになったのだと思います。

このことは農機の「愛称好き」や「キャラクター好き」の伝統に大きな影響を与えたと僕は考えています。

田植機の歴史はまだ短いけれど、初期のサイクルは1年2年という短さ。(年1回しか田植えができないのに)朝令暮改と言いますか、密度が濃い感じです。

その朝令暮改の時代・・・1970年までのカオスは個人の発明家やみのる産業など他の会社の年表を混ぜるともっともっと面白くなると思うのですが、これらの情報を取得するのがなかなか難しい・・・

今日はこんなところです。また明日!

上の記事とゆるく関連しているほかの記事:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です