以前の記事でシバウラのハンドトラクターのスクラップを取りあげていました。その後の運命のお話です。
姥捨て山?の頂上で「このまま潰されるのはイヤだ」と、主張していたのかも
↑別になんてことはない、スクラップの山からトラクターがピックアップされる動画
その後どうなっていくか・・・
このままであれば、電気炉で溶かされて鉄筋になるか、それともこの間テレビで見たのですが銑鉄に混ぜられて新しい鋼材になるか・・・もしくはうまい具合に部品取として目を付けられ、2個1、3個1となってトラクターの中のどこかの部品として生きるか・・・そんなところだったと思います。
実はアート作品になったのでした
個展のタイトルは「地上の道のように」。
色々な話を総合すると、目の不自由な人がライフワークのように毎日、「自分で見ることのない」写真を撮っていることを聞いたヨンドゥさんが「道」というものは初めからそこに「道」があるわけではなく、人々が歩くことによって「道」になるのだという有名な(僕は知りませんでしたけど)魯迅の言葉に引っ掛けて名付けたもののようです。
希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えぬ。
それは地上の道のようなものである。
地上にはもともと道はない。
歩く人が多くなれば、それが道となるのだ。
希望を求めて何かをすると希望は見えないが、一見無意味に見える行動も続ける、続くことによって希望が見えてくる・・・そんな感じでしょうか?
すごく色々なことに当てはまりそうな言葉です。例えばこのようなブログを続けることかもしれないし、もしかしたら何かの役に立つとも思えないアート作品を創ることかもしれない(失礼!)、自分で見ることのできない写真を撮ることもそれかもしれない、投票に行き一票を投じることもそうかもしれない・・・
個人が平和を願い、小さな行動を起こすことや、寄付をすること、神社でお賽銭をあげること・・・何から何までなんだか希望に繋がりそうなナイスな言葉ではないですか!
独自解釈で、かなり話がそれてしまったかっ???
シバウラはブラインドパースペクティブになった
と、いうわけでシバウラのトラクターは「ブラインドパースペクティブ」という作品の一部になりました。上の映像の冒頭に出てくる点字ブロックの両側に展開する景色をバーチャルゴーグルで見る景色と見比べるという作品です。
でシバウラは?
見方は色々
これらを「ゴミ」という見方もあると思うんです。それと同じように、初め僕がこのシバウラを見た鉄屑の山を「ゴミ」という人もいるだろうし、「宝の山」と思う人もいます。
そしてこのごみの中に「希望」を見る人もいるだろうし、見る人の気分、その時の意識のレベル、心の状態によって見え方が変わってくる・・・そんなことをヨンドゥさんは言いたかったのかもしれません。
そして少しこんなことも思いました。
ここからは場所が違う写真です
静かに生まれ変わりを待っていたトラクターは脚光を浴びた?場から再び以前の状態へ戻っていきました。これが彼にとって良いことだったのか、悪いことだったのかはわかりません。
ただ、ずいぶん乱暴な言葉にしてしまいますが、瓦礫が希望に変わるということを知らなかったあのときの僕も、今は少し違った目で瓦礫を見ることができるというのは間違いないです。
今、大変な人も、普段の生活を続けることによって、当時を今とは違った目で眺められるようになると良いなあ・・・と思いました。
まとまってなくてすみません。じゃっ、今日はこれで・・・
旧い農機は最強さん おはようございます
確かに輝いているというには少し微妙でした!
ただ、他のゴミ?が草などに置き換えられているのに比べて存在感のある道ばたの大きな石ですから
ちゃんと役を貰った役者さんという感じでしょうか・・・
ゴミなのか宝なのか
輝いているのかくすんでいるのか
瓦礫なのか作品なのか
多分、見る人によって、見る時によって、見る心によって違ってくるのでしょう
見えているものが、見えているにもかかわらず、こんなにも違ってくるということ
そして、見えていない、見ることができない、見ていないの違い
色々なことを問題提起しているのでしょうね
シバウラはまたもとの状態に戻っていくわけですけど
ちょっとどんな気持か聞いてみたいです
まぁ実際には輝いて見えませんとは思いますが(^^;;
てっきり珍しい耕運機だったのでレストアでもされるのかと思っていたら意外でしたね。引き取られる前はただただ溶かされるのを待つだけのものが人間の手によってまた輝ける日がくる。すごく素晴らしいことだと思いました。