
昨日途中になってしまった、ヰセキ管理機KC350Fから始まる「愛称問題」。ヰセキは1971年の「さなえ」に始まり、「太郎」「大作」「耕太」と数々の愛称を生み出したトップランナーでした。
しかし、そんな愛称は当時だって農機だけ。
1971年といえばクルマはシビックが出た年。ましてや「花子」「二郎」なんてクルマは1台もないのでした。と、いうわけでヰセキは少しずつ古い・ダサイ名前からの脱却を進めていたフシがあります。それを少し追いかけてみましょう。
「さなえ」の成功に引っぱられた1970年代

結局愛称「さなえ」は最後まで残りました。
当時のアイドル、桜田淳子さん。思い切り顔あげてますし、横向いちゃってます。きっとイセキ社員の広告写真撮影中のスナップショットなのでしょう。あぜ道の上に田植機が置いてあって、田植えすらしていません。

考えてみたら、日本で最初の自脱型コンバイン、イセキHD50の愛称・別称は「Frontier」でした。それがいつのまにか「太郎」になってます。これも「さなえ」に引っぱられているとしか考えられません。
「ちょっとダサい」そんな愛称に少し変化が・・・
「ランド化」その変化は1984年に決定的に・・・
「ランド化」それは耕うん機の世界でも同じです

「太郎」だったコンバインは1984年にはフロンティアに先祖帰り
この頃までにヰセキの愛称はほぼ(「さなえ」を除く)英字表記になっています。親しみやすい日本名から、大地に関係する英語表記になったということですね。
その「さなえ」ですら1988年に「SANAE」になっています。ヰセキの愛称は1988年にはほぼ「カッコいい路線」に変化を完了していたことになります。しかし、追従他社はそのあたりでもまだ「親しみやすい日本名愛称」にこだわっています。
愛称のトップランナー「ヰセキ」、変化をするのも一番先だったということですね。さすが!
「みほ」「ケン太」ほんの少し残ってる
ただ、バインダーとハーベスターだけは、機械としてもオールドスクールなためか、かなり遅くまでに日本名が残っていたみたいです。
今日はこんな感じです。それではまた明日!