ニュースなどでも連日やってるし、近いなあ・・・と思っていたけど、今朝気がつきました。今日は震災の日だった・・・
この場所でもたびたび書いていました。ただ、あまり湿っぽくなるのはイヤなので、失ったものを数えるようなものではなくサバイバル的、足りないモノ生活の中での工夫みたいなものが多かったんじゃないかなあ・・・
だんだん忘れてきちゃってるんだ!と、少し自分に驚きました。
自分の目に入る地震関連のものは街中にほとんど見られなくなったし(まだいくらかは残ってますが)、壁のヒビとかブロック塀を直してないとかそんなところはありますが、思い出すことは少なくなっています。
こういうときはみな素直に震災の話題ってことになるのでしょう。僕はヒネクレモノなのでスルーしようと思ったのですが、これだけ忘れてると「少し思い出したほうがいいかもなあ」などと殊勝に思い、ちょっと振り返って見るとにしました。
2010年の7月だったと思います。『Porsche/ヰセキトラクター続報』という記事を書きました。
ここに出てきたイセキ・ポルシェのお話です。
確実なものは何一つない。明日もくるかどうかはわからない。
2011年4月8日とか9日だったと思います。気仙沼の友達のところへお見舞い&物資配達に行ってきました。そのとき・・・
送ってもらった写真そのもののトラクターでした。多分売れることなくお店にあった状態で流されたのでしょう。立ち寄った知人に連絡先を知らせる紙が、雨なのか雪なのか濡れて貼りついていました。
他にも・・・


地震があった日は、普段「しっかりとしたもの」と感じている地面が豆腐みたいに頼りないものだと感じたし、イセキ・ポルシェのようすを見ると誰かの手に渡る前に鉄屑になっています。何もかもが実は頼りない。お日様が昇って明日が来ていたのはたんなる偶然だったんです。
いろいろなこと、しばらく忘れていいましたね・・・忘れていようが覚えていようが起こることを変えることはできませんが、不意打ちを食らうよりは覚悟があったほうが何か起こってからの先が違うような気がします。
常に地震の傷跡が目の前にあればイヤでも忘れないけど、それでは気になりすぎて普通にはしていられない。で、隠すというか、なかったことにしてきれいに片付けてしまうと今度は忘れすぎてまた不意打ちを喰らってしまう。
生活するには働かなくちゃいけなくて、その働くって生きることに直結してるくせに、あまり人間的で無いような気がしてきた。だからいろんなところに目を背けなくちゃいけなくなるんだ。
普段の生活と、この無常ってものに対し覚悟しつづけることのバランスって難しいですねえ・・・
きょうはいつにもましてメチャクチャになっちゃいました・・・また明日っ!