オリジンパークへ行ってきた。その2

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たまーに写真撮影可の博物館、例えば『スガノ農機「土の館」トラクタ博物館』であったり『明治150年記念、日本を変えた千の技術博』の話になったりします。今日は先日行ってみた日立市の大甕(おおみか)にある日立製作所の企業ミュージアム「日立オリジンパーク」に行ってきましたその2です。日立製作所最初の製品は5馬力のモーターでした。

ガラスに印刷をしているのでしょうか・・・ものすごく凝った展示です。「膨大なテキストを書く」という作業もありますが、このようなあらるる技術を駆使して展示方法を考えるというのも大変ですよね。ガラスブース内にある展示のテーブル、宙に浮いているように見えます。
ガラスに印刷をしているのでしょうか・・・ものすごく凝った展示です。「膨大なテキストを書く」という作業もありますが、このようなあらるる技術を駆使して展示方法を考えるというのも大変ですよね。ガラスブース内にある展示のテーブル、宙に浮いているように見えます。
顔写真がガラスに張り付いていますね。キャプションには  日立製作所の創業者、小平浪平は1874年に栃木県下都賀郡家中合戦場に生まれた。 明治の躍動期に青年時代を過ごし、電気の時代の始まりを背景に、東京帝国大学に学び、小坂鉱山に電気主任技術者として入社。 若きエンジニアであった小平は、「自らの力で電気機械を製作したい」という学生時代から抱いていた志を胸に「日立製作所を立ち上げる」。 以来、卓越なる先見と不屈の努力によって、現在の日立製作所の礎を築いたのである。とあります。
顔写真がガラスに張り付いていますね。キャプションには

創業者 小平浪平 その志
日立製作所の創業者、小平浪平は1874年に栃木県下都賀郡家中合戦場に生まれた。 明治の躍動期に青年時代を過ごし、電気の時代の始まりを背景に、東京帝国大学に学び、小坂鉱山に電気主任技術者として入社。 若きエンジニアであった小平は、「自らの力で電気機械を製作したい」という学生時代から抱いていた志を胸に「日立製作所を立ち上げる」。 以来、卓越なる先見と不屈の努力によって、現在の日立製作所の礎を築いたのである。

とあります。

家中合戦場・・・すごい名前です。小平さん、栃木の人で茨城の人ではなかったのですね。

名前の由来としては宇都宮氏皆川氏が戦った・・・ということがwikiに乗っています。地図を見ると合戦場クリニックという病院があります。名前のインパクトがすごい!

すぐれた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する  創業理念のようです。
すぐれた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する 創業理念のようです。
これも小平さん???キャプションには小平が抱き、創業以来大切に受け継いできた企業理念「すぐれた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」。 その実現に向け、先人達が労苦を重ねる中で形作られてきた大切な価値が「日立創業の精神」である。 「日立創業の精神」を表す「和・誠・開拓者精神」について小平自身は多くを語らなかったが、高尾によって昇華され、すべての日立グループ従業員の心に浸透している。とあります。写真はどうも本人のようです。
これも小平さん???キャプションには

日立創業の精神
小平が抱き、創業以来大切に受け継いできた企業理念「すぐれた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」。 その実現に向け、先人達が労苦を重ねる中で形作られてきた大切な価値が「日立創業の精神」である。 「日立創業の精神」を表す「和・誠・開拓者精神」について小平自身は多くを語らなかったが、高尾によって昇華され、すべての日立グループ従業員の心に浸透している。


とあります。写真はどうも本人のようです。
顔写真がガラスに張り付いていますね。キャプションには 日立製作所の創業者、小平浪平は1874年に栃木県下都賀郡家中合戦場に生まれた。 明治の躍動期に青年時代を過ごし、電気の時代の始まりを背景に、東京帝国大学に学び、小坂鉱山に電気主任技術者として入社。 若きエンジニアであった小平は、「自らの力で電気機械を製作したい」という学生時代から抱いていた志を胸に「日立製作所を立ち上げる」。 以来、卓越なる先見と不屈の努力によって、現在の日立製作所の礎を築いたのである。とあります。これも小平さん???キャプションには小平が抱き、創業以来大切に受け継いできた企業理念「すぐれた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」。 その実現に向け、先人達が労苦を重ねる中で形作られてきた大切な価値が「日立創業の精神」である。 「日立創業の精神」を表す「和・誠・開拓者精神」について小平自身は多くを語らなかったが、高尾によって昇華され、すべての日立グループ従業員の心に浸透している。とあります。写真はどうも本人のようです。
同じ人とぱっとはわかりません。随分苦労したのでしょうね。
文書が短く絵がでかい。見せ方が素敵です。でも、ブツは少なめ。  開拓者たちの挑戦 1910年、日立鉱山の修理工場での実績を経て、日立製作所が創業。 「純国産技術による電気機械の製作」への挑戦が始まる。 輸入品に頼っていた時代、全くのゼロからのスタートであった。苦難の連続の末、国産化の道を拓いた日立は、事業を大きく発展させていく。
文書が短く絵がでかい。見せ方が素敵です。でも、ブツは少なめ。

大きなバナーにはゼロからの出発として

開拓者たちの挑戦 1910年、日立鉱山の修理工場での実績を経て、日立製作所が創業。 「純国産技術による電気機械の製作」への挑戦が始まる。 輸入品に頼っていた時代、全くのゼロからのスタートであった。苦難の連続の末、国産化の道を拓いた日立は、事業を大きく発展させていく。

とあります。その前には実際の製品らしきもの。
2つ見えるブツのうち一つはこれ。モーターです。
2つ見えるブツのうち一つはこれ。モーターです。黒く煮締まった鉄の塊です。
丸みを帯びた可愛らしい作り。
丸みを帯びた可愛らしい作り。鉄の塊、モーターというよりは柔らかみのある土器みたいです。
オークションで見つけた現在の5馬力モーター。誘導電動機は三相モーターと言って良いのではないでしょうか?可愛らしさが違いますね。
バナーの下の什器の中に細かいものや少し詳しい由来が書いてあります。日立製作所の創業 日立製作所は日立鉱山の小さな修理工場から始まった。 1910年、新工場を建設し、日立製作所の創業となる「鉱山で作るものをどんどん作ろうではないか」という掛け声のもと、なんでも作るが、鉱山の注文はほとんどなく、故障の連続で信用は地に落ちる。 品質向上に全力を挙げ、研究に地道に取組んだ。また、優秀な人材の確保と従業員教育に力を注ぎ、営業体制の整備にも力を注いだ。日立工場大火災で「製作事業を止めようか」と思うほどの事態になるが、不屈の闘志で克服し,1920年独立を果たす。
バナーの下の什器の中に細かいものや少し詳しい由来が書いてあります。

日立製作所の創業
日立製作所は日立鉱山の小さな修理工場から始まった。 1910年、新工場を建設し、日立製作所の創業となる「鉱山で作るものをどんどん作ろうではないか」という掛け声のもと、なんでも作るが、鉱山の注文はほとんどなく、故障の連続で信用は地に落ちる。 品質向上に全力を挙げ、研究に地道に取組んだ。また、優秀な人材の確保と従業員教育に力を注ぎ、営業体制の整備にも力を注いだ。日立工場大火災で「製作事業を止めようか」と思うほどの事態になるが、不屈の闘志で克服し,1920年独立を果たす。
5馬力誘導電動機についても少し詳しく書かれています。自主技術の原点 5馬力誘導電動機 1910年に完成した最初の製品は、日立鉱山用として製作された3台の5馬力誘導電動機である。初めは鉱山で使う外国製機械の修理ばかりであったが、その原因を調査し、製作方法なども研究した結果、自分たちで作ろうと挑戦することになった。英国から鉄板加工機械を買い入れ、小平の指示の下、高尾らが設計・製図し、自らコイルを巻いた。自主技術による初めての純国産製品の誕生であった。
5馬力誘導電動機についても少し詳しく書かれています。

自主技術の原点 5馬力誘導電動機
1910年に完成した最初の製品は、日立鉱山用として製作された3台の5馬力誘導電動機である。初めは鉱山で使う外国製機械の修理ばかりであったが、その原因を調査し、製作方法なども研究した結果、自分たちで作ろうと挑戦することになった。英国から鉄板加工機械を買い入れ、小平の指示の下、高尾らが設計・製図し、自らコイルを巻いた。自主技術による初めての純国産製品の誕生であった。
カメラで撮ると真っ黒に写ってしまうのでスマホで撮ってみました。
カメラで撮ると真っ黒に写ってしまうのでスマホで撮ってみました。
軸受の注油孔か何かでしょうか?蓋のついたパイプが立ち上がっています。回転軸周辺のあたりはガタガタです。鋳物の作りにかなり手作り感が・・・工業製品ではなく土器のように見えたのはそんなところがあるのでしょう。
軸受の注油孔か何かでしょうか?蓋のついたパイプが立ち上がっています。回転軸周辺のあたりはガタガタです。鋳物の作りにかなり手作り感が・・・かなり鬆(す)がで入ってしまっています。工業製品ではなく土器のように見えたのはそんなところがあるのでしょう。

・・・と、今日のところはここまで。人の子ない週末を狙って続くかもしれません。それではまた明日!

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