光や音で伝える、コミュニケーションを変える技術その3「日本を変えた千の技術博@国立科学博物館」

休みの日は見に来る人も少ないので今日は趣向を変えて・・・国立科学博物館で開催されていた、明治150年記念、日本を変えた千の技術博という特別展で見たものいろいろ・・・その27です。

 

こんな展示です。WEBページによれば・・・ 明治改元から150年、そして2019年に予定される改元。 時代が転換するこの機会にあわせて日本を大きく変えていった科学・技術の成果が一堂に集まります。 日本各地の大学・研究機関や企業などから、 600を超える点数の貴重な科学・技術の遺産が上野の国立科学博物館に大集合! 科学者・技術者の発明・発見にまつわるエピソードや世相、関連する写真などを合わせ、 "日本を変えた千の技術"をたっぷりと紹介していきます。 中でも、「重要文化財」や、「化学遺産」、「機械遺産」、「情報処理技術遺産」、 「でんきの礎」、 「未来技術遺産」に認定された約50点の資料は特に注目です! だそうです。 開館時間 : 午前9時~午後5時 (金曜日、土曜日は午後8時まで、入館は各閉館時間の30分前まで) 休館日 : 毎週月曜日(2月25日は開館、2月12日はお休み)

こんな展示です。WEBページによれば・・・

明治改元から150年、そして2019年に予定される改元。
時代が転換するこの機会にあわせて日本を大きく変えていった科学・技術の成果が一堂に集まります。
日本各地の大学・研究機関や企業などから、
600を超える点数の貴重な科学・技術の遺産が上野の国立科学博物館に大集合!
科学者・技術者の発明・発見にまつわるエピソードや世相、関連する写真などを合わせ、
“日本を変えた千の技術”をたっぷりと紹介していきます。
中でも、「重要文化財」や、「化学遺産」、「機械遺産」、「情報処理技術遺産」、
「でんきの礎」、 「未来技術遺産」に認定された約50点の資料は特に注目です!

もう終っちゃいましたけどね。

 

僕はこの機械?にすごく興味を持ったらしく、たくさん写真を撮っています。これを初めて見て、何の装置かわかる人、たくさんはいないと思います(いるかな?僕だけわからなかった?)映画に出てくるマッドサイエンテストが作る人体改造マシンという趣です。 すぐ脇のパネルを見れば何をする装置かすぐわかります。 X線で視る ドイツの物理学者レントゲンが放射線を発見したニュースは、瞬く間に世界中に広がった。翌年の1896(明治29)年には早くも日本で、島津源蔵が協力した第三高等学校や、山川健次郎などがX線による写真撮影に成功している。X線を利用すれば、体の内部を透視できるので、その後、研究・医療を目的として東京帝国大学医科大学と陸軍軍医学校に装置が輸入された。大正時代には、国産のX線装置やX線管が製造され、レントゲン撮影も普及した。 とあります。この装置、レントゲン撮影装置だったんですね!

僕はこの機械?にすごく興味を持ったらしく、たくさん写真を撮っています。これを初めて見て、何の装置かわかる人、たくさんはいないと思います(いるかな?僕だけわからなかった?)映画に出てくるマッドサイエンテストが作る人体改造マシンという趣です。

すぐ脇のパネルを見れば何をする装置かすぐわかります。

X線で視る
ドイツの物理学者レントゲンが放射線を発見したニュースは、瞬く間に世界中に広がった。翌年の1896(明治29)年には早くも日本で、島津源蔵が協力した第三高等学校や、山川健次郎などがX線による写真撮影に成功している。X線を利用すれば、体の内部を透視できるので、その後、研究・医療を目的として東京帝国大学医科大学と陸軍軍医学校に装置が輸入された。大正時代には、国産のX線装置やX線管が製造され、レントゲン撮影も普及した。

とあります。この装置、レントゲン撮影装置だったんですね!

 

X線装置 ニューオーロラ号 島津製作所製 1896(明治29)年にレントゲン撮影に成功した二代目島津源蔵は、理化学用及び医療用X線装置の開発にも熱心であった。ニューオーロラ号は、1918(大正7)年頃から販売され、国内の多くの病院に設置され、わが国の医療に貢献した。

X線装置 ニューオーロラ号
島津製作所製
1896(明治29)年にレントゲン撮影に成功した二代目島津源蔵は、理化学用及び医療用X線装置の開発にも熱心であった。ニューオーロラ号は、1918(大正7)年頃から販売され、国内の多くの病院に設置され、わが国の医療に貢献した。

 

この機械ですよ?これを白衣のおじさんが操作する・・・子供は確実に泣きますね。

この機械ですよ?これを白衣のおじさんが操作する・・・子供は確実に泣きますね。

 

ニューオーロラ号、高圧の電気を使うのでしょう大きな碍子が物々しいです。中央のハンドルで電圧か何かを制御するのでしょう。下の箱は・・・コンデンサでしょうか・・・これを見ているうちにある典型的な絵が思い浮かびました。

ニューオーロラ号、高圧の電気を使うのでしょう大きな碍子が物々しいです。中央のハンドルで電圧か何かを制御するのでしょう。下の箱は・・・コンデンサでしょうか・・・これを見ているうちにある典型的な絵が思い浮かびました。

 

よくある表現ですけど、雷に打たれたらガイコツって、いつも「どうしてだろう」と思っていたんです。この機械から来た表現だって考えればスッキリします。 きっと、この装置のどこかでバチバチ火花が飛んでいる部分があったのではないでしょうか?電気が流れる?ブーンという音がしていたのではないでしょうか? それと透視というのが組み合わさり、世界中でこのような表現になったのだと考えれば納得がいきます。

よくある表現ですけど、僕はすっと雷もしくは電気に打たれた表現だと理解していました。でも、雷に打たれたらガイコツって、いつも「どこでそう繋がるんだろう」と、不思議に思っていたんです。それも、このX線装置から来た表現と考えればスッキリします。
きっと、この装置のどこかでバチバチ電気の青い火花が飛んでいる部分があったのではないでしょうか? また、電気が流れる?ブーンという音がしていたのではないでしょうか?
それらとX線透視というのが組み合わさり、世界中でこのような表現になったのだと考えれば納得がいきます。

 

ニューオーロラ・・・今だと安っぽいホテルの名前にしか思えませんが、大正時代の話です。きっとカッコよく感じてもらえたのでしょう。しかも「号」が付いています。装置に「号」をつけるセンス、今は信じられないことですが、その大きさは「号」にふさわしいです。きっとオーロラというのもその電気との関係や神秘的な印象から名付けたのでしょう。

ニューオーロラ・・・今だと安っぽいホテルの名前にしか思えませんが、大正時代の話です。きっとカッコよく感じてもらえたのでしょう。オーロラというのもその電気との関係や神秘的な印象から来ているのだと思います。しかもニューオーロラの後ろには「号」が付いています。装置に「号」をつけるセンス、今は信じられないことですが、その装置の大きさは堂々として「号」にふさわしいです。

 

銘板にはROENTGEN APPARATUSと書いてあります。SHIMADZU SEISAKUSHO LTDはKYOTO,TOKYO,OSAKA,FUKUOKA,DAIREN・・・その当時すでに大連にも支店があったんですね。

銘板にはROENTGEN APPARATUSと書いてあります。SHIMADZU SEISAKUSHO LTDはKYOTO,TOKYO,OSAKA,FUKUOKA,DAIREN・・・その当時すでに大連にも支店があったんですね。

 

このガラスの機器からX線が放射されて、後ろの木の板にはさんだ感光体に像が定着するんですかねえ・・・もー子供は絶対泣きますってば。これは大人だって怖いです。当時病院なんて暗い感じでしょうし、ブンブンバチバチいっている装置から出る得体の知れない光線を浴びるなんて・・・

このガラスの機器からX線が放射されて、後ろの木の板にはさんだ感光体に像が定着するんですかねえ・・・もー子供は絶対泣きますってば。これは大人だって怖いです。当時病院なんて暗い感じでしょうし、ブンブンバチバチいっている装置から出る得体の知れない光線を浴びるなんて・・・

マッドサイエンティストの話はやっと終り、次です

 

コミュニケーションとはちょっと違いますが、計算機の話です。後ろのパネルを読んでみましょう。まずは左のパネル。 そろばんに負けたから計算機をつくりたいと思った カシオ計算機の創業者の一人、樫尾俊雄は、計算機を開発するようになった経緯について、以前語っている。「ある時、電動計算機とそろばんによる計算速度の対決で、そろばんが勝った。しかし、そろばんによる計算速度はこれ以上速くならないだろうと思った。ところが計算機は技術によって、まだまだ発展させることができる。それならやってみようと思った」と語っている。 とあります。モーターを使った計算ではそろばんに負けてしまうんですね。そしてその隣のパネルには・・・ はじまりは計算する機械 複雑な計算は面倒くさい。そこで計算する機械が考案された。明治時代の中頃になると、国内でも機械式計算機の特許が認められている。1903(明治36)年には、矢頭良一が独自のアイディアによる計算機「自動算盤」を発明している。そして1950年代後半には、リレーを使った計算機や真空管式の計算機が登場した。1964(昭和39)年に早川電機工業(現・シャープ)が発表したオールトランジスタ式卓上計算機は業界に大きな衝撃を与えた。

コミュニケーションとはちょっと違いますが、計算機の話です。後ろのパネルを読んでみましょう。まずは左のパネル。

そろばんに負けたから計算機をつくりたいと思った
カシオ計算機の創業者の一人、樫尾俊雄は、計算機を開発するようになった経緯について、以前語っている。「ある時、電動計算機とそろばんによる計算速度の対決で、そろばんが勝った。しかし、そろばんによる計算速度はこれ以上速くならないだろうと思った。ところが計算機は技術によって、まだまだ発展させることができる。それならやってみようと思った」と語っている。

とあります。モーターを使った計算ではそろばんに負けてしまうんですね。そしてその隣のパネルには・・・

はじまりは計算する機械
複雑な計算は面倒くさい。そこで計算する機械が考案された。明治時代の中頃になると、国内でも機械式計算機の特許が認められている。1903(明治36)年には、矢頭良一が独自のアイディアによる計算機「自動算盤」を発明している。そして1950年代後半には、リレーを使った計算機や真空管式の計算機が登場した。1964(昭和39)年に早川電機工業(現・シャープ)が発表したオールトランジスタ式卓上計算機は業界に大きな衝撃を与えた。

 

これがその業界に衝撃を与えたシャープの卓上計算機。 電子式卓上計算機 コンペットCS-10A 1964(昭和39)年 オールトランジスタ・ダイオードによる電子式卓上計算機として、世界でも最初期に発売され、その後の小型化や普及に道を拓いた。ゲルマニウム・トランジスタ530個とダイオード2,300個を含む4,000点の部品からなり、重量は25kgもある。定価は53万5千円で、当時の大衆的な乗用車と大体同じ値段であった。 卓上といっても卓に載せることが可能・・・という大きさですが

これがその業界に衝撃を与えたシャープの卓上計算機。
電子式卓上計算機 コンペットCS-10A 1964(昭和39)年
オールトランジスタ・ダイオードによる電子式卓上計算機として、世界でも最初期に発売され、その後の小型化や普及に道を拓いた。ゲルマニウム・トランジスタ530個とダイオード2,300個を含む4,000点の部品からなり、重量は25kgもある。定価は53万5千円で、当時の大衆的な乗用車と大体同じ値段であった。

卓上といっても卓に載せることが可能・・・という大きさと重さですね。

 

電子計算機 SOBOX ICC-500 ソニー製 1967(昭和42)年
トランジスタ電卓元年の1964(昭和39)年に発表された試作計算機の実用機で、軽量小型で使い勝手の良さにソニーならではの工夫が光る。

たった三年で卓上と素直に認められる計算機ができてしまいましたね。

 

カシオミニ カシオ計算機製 1972(昭和47)年 ついにパーソナルユースの電卓登場!幅146×奥行77×高さ42mm。重量315g(本体215g、電池100g)、少肥電力は0.85W。手のひらサイズのこ型電子卓上計算機である。開発当初より個人での利用を考え、機能を絞り低価格(発売当時の価格は12,800円)を実現したことにより、電卓が広く普及するきっかけとなった。

カシオミニ カシオ計算機製 1972(昭和47)年
ついにパーソナルユースの電卓登場!幅146×奥行77×高さ42mm。重量315g(本体215g、電池100g)、少肥電力は0.85W。手のひらサイズのこ型電子卓上計算機である。開発当初より個人での利用を考え、機能を絞り低価格(発売当時の価格は12,800円)を実現したことにより、電卓が広く普及するきっかけとなった。

 

答え一発カシオミニ・・・ですね。今気がついたのですが、普段何も考えずに使っている「電卓」という言葉・・・よく考えたら、どこにも計算機の匂いがないです。

 

電気とテーブルしか想像できない・・・今まで何も考えていませんでした。これで小さな計算機だとどうして認識できたのか・・・

 

ここまで見てきてやっとわかりました、樫尾さんがそろばんに負けた悔しさの詰まった、そろばんの手動に対抗しての電気、もしくは電動の「電」と、巨大な装置としての計算機ではなく、「家庭でも使えますよ」の気持が込められた卓上の「卓」合わせて「電卓」。

 

今から50年以上も前のその気持が今に繋がって、個人で使う小さな計算機のことを「電卓」と認識しているんですね!おもしろいです。

 

今日はこんなところです。また明日!

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コメント

左の木箱が誘導コイルでしょうか?中のハンドルでスパークギャップを調整して電圧を
制御していたと思われますが、電圧計や電流計が見当たりません?
恐らくですが、ネオン管や蛍光塗料を塗った管などで様子を伺って
職人技のチューニングテクを駆使して撮影ミッションをおこなっていたと思います。
しかも遮蔽や隔離が全くされていない剥き出しの真空管!
現代の感覚からすると非常に危険な作業ですよね・・・
あらためて科学の先輩たちには感動します。

最近リニューアルした温泉の露天風呂の演出照明に所謂ブラックライトが使われていて
敷石やタイルの目地のモルタルの砂の一部に蛍光物質を使ってキラキラさせていて
暗がりの足元の安全も見た感じのゴージャス感もよく出ていて感心しました。
ゼロ戦の計器盤の文字や指針やスイッチのコメントは夜光塗料で書かれていて
紫外線電球を点灯させると星を散りばめた様な美しい眺めだったとか。

音も無く、熱気も無く、目にも見えないけど放射線は確かに存在するんですから厄介です
ブラウン管のテレビも輝度を上げすぎると被爆する注意ラベルが貼ってありました。

2019年11月16日 6:16 PM | 山葵

おはようございます。

昔は電子計算機の事を電算機と呼んでいましたね。学校や会社では計算機が設置してあり空調がガンガン効いている部屋を電算機室と呼んでました。

卓上の電算機なので電卓(卓電ではなかった?)では無いでしょうか?

2019年11月17日 6:18 AM | hyoukou240m

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