第8章、コミュニケーションを変える技術「日本を変えた千の技術博@国立科学博物館」

休みの日、さらには巨大台風19号の接近により、見に来る人も少ないので今日は趣向を変えて・・・国立科学博物館で開催されていた、明治150年記念、日本を変えた千の技術博という特別展で見たものいろいろ・・・その24です。

 

こんな展示です。WEBページによれば・・・ 明治改元から150年、そして2019年に予定される改元。 時代が転換するこの機会にあわせて日本を大きく変えていった科学・技術の成果が一堂に集まります。 日本各地の大学・研究機関や企業などから、 600を超える点数の貴重な科学・技術の遺産が上野の国立科学博物館に大集合! 科学者・技術者の発明・発見にまつわるエピソードや世相、関連する写真などを合わせ、 "日本を変えた千の技術"をたっぷりと紹介していきます。 中でも、「重要文化財」や、「化学遺産」、「機械遺産」、「情報処理技術遺産」、 「でんきの礎」、 「未来技術遺産」に認定された約50点の資料は特に注目です! だそうです。 開館時間 : 午前9時~午後5時 (金曜日、土曜日は午後8時まで、入館は各閉館時間の30分前まで) 休館日 : 毎週月曜日(2月25日は開館、2月12日はお休み)
こんな展示です。WEBページによれば・・・

明治改元から150年、そして2019年に予定される改元。
時代が転換するこの機会にあわせて日本を大きく変えていった科学・技術の成果が一堂に集まります。
日本各地の大学・研究機関や企業などから、
600を超える点数の貴重な科学・技術の遺産が上野の国立科学博物館に大集合!
科学者・技術者の発明・発見にまつわるエピソードや世相、関連する写真などを合わせ、
“日本を変えた千の技術”をたっぷりと紹介していきます。
中でも、「重要文化財」や、「化学遺産」、「機械遺産」、「情報処理技術遺産」、
「でんきの礎」、 「未来技術遺産」に認定された約50点の資料は特に注目です!

もう終っちゃいましたけどね。

 

さて、第8章はコミュニケーションを変える技術です。 遠くへ習字に正確に情報を伝える。実現させたのは電気による通信技術です。19世紀に有線電信で始まり、20世紀に入ってラジオやテレビなどが登場し、情報化社会へと発展してきました。そして、コンピューターや人工知能(AI)は人の想像を超えた速度で進化しつつあり、人々のコミュニケーションが変わるかもしれません。 とあります。
さて、第8章はコミュニケーションを変える技術です。

遠くへ習字に正確に情報を伝える。実現させたのは電気による通信技術です。19世紀に有線電信で始まり、20世紀に入ってラジオやテレビなどが登場し、情報化社会へと発展してきました。そして、コンピューターや人工知能(AI)は人の想像を超えた速度で進化しつつあり、人々のコミュニケーションが変わるかもしれません。

とあり、展示は電気でつなぐ技術から始まっています。

どこでも、だれとでも電気でつながる
1871(明治4)年、デンマークの大北電信会社が長崎まで海底ケーブルを敷設し、日本は世界の通信網につながりました。1898年頃には、松代松之助が日本で初めての無線通信実験に成功しています。戦後、無線やエレクトロニクスの技術の発達により、1960年代には海底ケーブルと通信衛星によって、日本は世界とつながるようになりました。とあります。

松代松之助・・・すごい名前ですが、調べてみると電気試験所の主任で、日本海軍日露戦争当時以降使用した三六式無線電信機の前身、三四式無線機を開発した技師のようです。また、大北電信会社という会社は今でもあって、GNストア・ノードという名前で、現在は補聴器やヘッドセットなどの音響機器製造業として存続している模様です。

 

海底ケーブルの展示なのでしょう。背景のパネルには 世界が電線でつながる 水圧や張力に耐える海底ケーブルの製造は、明治時代の日本では困難であった。当時の古河電気工業、住友電線、藤倉電線がこの分野に挑戦し、1920年代には国産化に成功した。  戦後、国際間の通信は飛躍的に増え、1964(昭和39)年には日米で、太平洋横断海底ケーブルの第一号(TPC-1)を建設した。その際、日本太平洋海底電線(OCC)がケーブル製造を請け負った。現在、日本の国際通信は人工衛星も経由するが約99%は光海底ケーブルを利用していて、それを製造・敷設できるのは、世界でもNEC/OCC他数社しかない。 とあります。
海底ケーブルの展示なのでしょう。背景のパネルには

世界が電線でつながる
水圧や張力に耐える海底ケーブルの製造は、明治時代の日本では困難であった。当時の古河電気工業、住友電線、藤倉電線がこの分野に挑戦し、1920年代には国産化に成功した。
 戦後、国際間の通信は飛躍的に増え、1964(昭和39)年には日米で、太平洋横断海底ケーブルの第一号(TPC-1)を建設した。その際、日本太平洋海底電線(OCC)がケーブル製造を請け負った。現在、日本の国際通信は人工衛星も経由するが約99%は光海底ケーブルを利用していて、それを製造・敷設できるのは、世界でもNEC/OCC他数社しかない。

とあります。

 

そんな海底ケーブルの展示の次はアンティークな電話。しかしこれは無線電話機です。 TYK式無線電話機 1914(大正3)年に鳥潟右一、横山英太郎、北村政治郎らによって世界で最初に実用化された無線電話機。 ええええっ?これって携帯電話ってことでしょうか?(携帯できないですけど)
そんな海底ケーブルの展示の次はアンティークな電話。しかしこれは無線電話機です。
TYK式無線電話機
1914(大正3)年に鳥潟右一、横山英太郎、北村政治郎らによって世界で最初に実用化された無線電話機。
ええええっ?これって携帯電話ってことでしょうか?(携帯できないですけど)

 

電線もないのに遠くに電気が届く 無線技術は19世紀末に研究が始まったばかりの若い技術であった。1896(明治29)年には早くも逓信省電気試験所の松代松之助らが研究に着手している。その成果は日露戦争の日本海海戦で無線電信機が活用されたことで実証された。そして同所の鳥潟右一、横山英太郎と北村政治郎は、1912(明治45)年にTYK式無線電話機を開発して実験に成功し、2年後には伊勢湾で離島間通信に使用された。これは世界における無線電話の最初の実用例となった。
電線もないのに遠くに電気が届く
無線技術は19世紀末に研究が始まったばかりの若い技術であった。1896(明治29)年には早くも逓信省電気試験所の松代松之助らが研究に着手している。その成果は日露戦争の日本海海戦で無線電信機が活用されたことで実証された。そして同所の鳥潟右一、横山英太郎と北村政治郎は、1912(明治45)年にTYK式無線電話機を開発して実験に成功し、2年後には伊勢湾で離島間通信に使用された。これは世界における無線電話の最初の実用例となった。とあります。

 

こちらはアンテナと受信機でしょうか?
こちらはアンテナと受信機でしょうか?

 

上の展示は八木・宇田アンテナを初めて実用化した極超短波無線受信機でした。 八木・宇田アンテナは、短波及び超短波用のアンテナで、東北帝国大学の八木秀次や宇田新太郎らによって発明された。特に宇田新太郎の貢献が大きかったと言われている。1926(大正15)年に特許となった。 八木・宇田アンテナなくしてテレビ見られず! 指向性超短波アンテナの元祖で世界中の家の屋根の上に! 今や衛星のパラボラのほうが多いかもしれませんが、世界中の家の屋根の上・・・確かにそうです。
上の展示は八木・宇田アンテナを初めて実用化した極超短波無線受信機でした。

八木・宇田アンテナは、短波及び超短波用のアンテナで、東北帝国大学の八木秀次や宇田新太郎らによって発明された。特に宇田新太郎の貢献が大きかったと言われている。1926(大正15)年に特許となった。

また、その下の吹き出しには

八木・宇田アンテナなくしてテレビ見られず!
指向性超短波アンテナの元祖で世界中の家の屋根の上に!

とあります。今や衛星のパラボラのほうが多いかもしれませんが、世界中の家の屋根の上・・・確かにそうです。こんな発明はなかなかないですよね!

 

蜘蛛の巣みたいなアンテナは鉱石ラジオのアンテナ。右手前は四球ラジオ。
蜘蛛の巣みたいなアンテナは鉱石ラジオのアンテナ。右手前は四球ラジオ。印象的な少女の絵が取りあげられたパネルには、ラジオ放送開始とタイトルされています。
1907(明治40)年にアメリカのデ・フォレストが発明した三極真空管は、球速にその応用分野を広げ、電子の時代になった。真空管の発達がラジをやテレビを実現し、そしてエレクトロニクスの時代が到来したのである。アメリカでは1920(大正9)年にKDKA局がラジオ放送を開始し、我が国でも少し遅れて1925(大正14)年からラジオの本放送が開始された。放送を支えた真空管の技術に関しても、1930年頃には欧米との技術格差は少なくなった。と書いてあります。

 

雑誌「主婦の友」 ラジヲを聞いている婦人・・・とあります。子供じゃなくてご婦人なんだ!
雑誌「主婦の友」
ラジヲを聞いている婦人・・・とあります。子供じゃなくてご婦人なんだ!

 

コヒラー検波機 鉱石検波器や真空管が発明されるまで多用された電波の検波機。ニッケルと銀の粉末を銀栓サンドイッチしガラス管に封入したもの。電波を受けると抵抗値が変化する。本機は鳥潟右一が使用したと伝わる。 ゲルマニウムラジオの前にシルバーラジオがあったということでしょうか。
コヒラー検波機
鉱石検波器や真空管が発明されるまで多用された電波の検波機。ニッケルと銀の粉末を銀栓サンドイッチしガラス管に封入したもの。電波を受けると抵抗値が変化する。本機は鳥潟右一が使用したと伝わる。

ゲルマニウムラジオの前にシルバーラジオがあったということでしょうか。

 

だんだん新しいものが展示されてきます。ダイヤル式の電話機。
だんだん新しいものが展示されてきます。ダイヤル式の電話機。

 

そしてバブルでおなじみショルダーホン。僕も使っているヒト見たことがあります。 ショルダーホン100型 大阪万博から15年ほどして、持ち歩くことができる電話が登場した。しかし、まだ自動車電話と兼用になっていた。とあります。 そういえば、自動車電話のついた車には特別な形のアンテナが必要で、見栄を張るためにアンテナだけが売られていましたよね!町中にはそのアンテナを付けたハイソカーってヤツが溢れていました。
そしてバブルでおなじみショルダーホン。僕も使っているヒト見たことがあります。
ショルダーホン100型
大阪万博から15年ほどして、持ち歩くことができる電話が登場した。しかし、まだ自動車電話と兼用になっていた。とあります。
そういえば、自動車電話のついた車には特別な形のアンテナが必要で、見栄を張るためにアンテナだけが売られていましたよね!町中にはそのアンテナを付けたハイソカーってヤツが溢れていました。

 

どこでも誰とでも電波でつながる かつてはどこにでも持ち歩ける電話が夢だった。1970(昭和45)年に大阪で開催された日本万国博覧会は、その夢の実現が近いことを印象づけた。15年後にやっと実現した携帯電話は肩掛けカバンほどの大きさであった。無線で電波を飛ばし、電話と交換機の技術があれば、携帯電話ができるわけではない。電波を細かく分けて使い、空間を飛び交う膨大な電波のなかから、それをキャッチし、混線しないように通信する高度な技術がひつようなのだ。 その下は自動車電話。そうそう!多くの人が見栄をはってインチキで付けていたのはこのアンテナです!
どこでも誰とでも電波でつながる
かつてはどこにでも持ち歩ける電話が夢だった。1970(昭和45)年に大阪で開催された日本万国博覧会は、その夢の実現が近いことを印象づけた。15年後にやっと実現した携帯電話は肩掛けカバンほどの大きさであった。無線で電波を飛ばし、電話と交換機の技術があれば、携帯電話ができるわけではない。電波を細かく分けて使い、空間を飛び交う膨大な電波のなかから、それをキャッチし、混線しないように通信する高度な技術がひつようなのだ。
その下は自動車電話。そうそう!多くの人が見栄をはってインチキで付けていたのはこのアンテナです!

 

当時のどこでも、誰とでもつながる夢・・・現実のものとなった現在では寝ても覚めても誰かとつながっていて、つながりに逆に追いかけられいている状態です。「つながらない権利」なんて最近のニュースで聞きましたもん。

 

具体的にはコンサートホールで電話がつながらないようにする技術が開発されたり、見えないものを見えるようにするレーダー技術が開発されれば、それで発見されないようにステルス技術が磨かれる・・・

 

夢が現実になればその夢を無効にする技術ができる・・・常にプラスマイナスがついてきます。こんどはその塩梅をAIでコントロールしようなんていう技術ができたりして・・・

 

きっとそのうちAIの裏をかくAIなどが開発され、さらにその裏をかくAI・・・新しい技術を使うほうのニンゲンはどこまでおばかさんなんだろうと思います。

 

どうしたらよいのか、考えがまとまらないまま今日はおしまいです。また明日!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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