日本を変えた千の技術博番外編「稲」その3

今日は国立科学博物館で開催されていた、明治150年記念、日本を変えた千の技術博という特別展で見たものいろいろ・・・その番外編。特別展以外の通常展示で見たブログのテーマにぴったりの稲の展示その3です。

 

これまでのお話は稲には人と土地、そして社会情勢に適したものを長い時間をかけ改良してきた歴史があり、さまざまな体系と多様な品種があります。

 

ヒトの世界はもちろん、技術の世界にも多様性が必要なように、イネの品種についてもひとつの品種に偏ることのない多様性が必要であるから、その体系をこれからも維持して行かなくてははらないということでした。

 

多様なイネ 米は、世界の半数以上の人々に主食として食べられており菓子や酒などの加工食品としても利用されている重要な穀物である。人類は、もともと熱帯地方原産の職鬱だったイネを、世界の多様な環境でも収穫ができるように品種改良してきた。現在では熱帯にはインド型と呼ばれる品種が、温帯には日本型と呼ばれる品種が栽培されている。原種とそこから派生したさまざまなイネには、人類の品種改良にかけた努力の跡を見ることができる。 とあります。展示は上から日本、中国、韓国、フィリピン、パキスタン、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカと、それぞれの土地や嗜好に合わせて生み出されたのであろう品種が並んでいます。
多様なイネ
米は、世界の半数以上の人々に主食として食べられており菓子や酒などの加工食品としても利用されている重要な穀物である。人類は、もともと熱帯地方原産の職鬱だったイネを、世界の多様な環境でも収穫ができるように品種改良してきた。現在では熱帯にはインド型と呼ばれる品種が、温帯には日本型と呼ばれる品種が栽培されている。原種とそこから派生したさまざまなイネには、人類の品種改良にかけた努力の跡を見ることができる。

とあります。展示は上から日本、中国、韓国、フィリピン、パキスタン、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカと、それぞれの土地や嗜好に合わせて生み出されたのであろう品種が並んでいます。

 

稲作のジオラマも・・・ 稲作に伴う環境の変遷 もともと低湿地の植物であるイネの生育には、水量を調節できる水田が必要になる。稲作農業の希望を拡大させるために、私たちの祖先は水田を増やす努力を続けてきた。日本の原風景ともいうべき里山の姿も、稲作が生み出した景観なのだ。ここでは、稲作を続けることで変わってきた日本の姿を通して人間の環境に対する働きかけの結果を見る。
稲作のジオラマも・・・

稲作に伴う環境の変遷
もともと低湿地の植物であるイネの生育には、水量を調節できる水田が必要になる。稲作農業の希望を拡大させるために、私たちの祖先は水田を増やす努力を続けてきた。日本の原風景ともいうべき里山の姿も、稲作が生み出した景観なのだ。ここでは、稲作を続けることで変わってきた日本の姿を通して人間の環境に対する働きかけの結果を見る。

 

さらに文が続きます。

 

縄文の米づくり

長い間、日本における稲作の歴史は弥生時代に始まると考えられてきた。しかし近年になって、縄文時代後期の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、少なくともこの時代から稲作が行われていた可能性が指摘されている。ただし、縄文時代の稲作は粗放な稲作で、弥生時代以降のような水田稲作ではなかったと考えられている。また、それは主食として成り立つような規模で行われたものではなく、河川の氾濫原のような、部分的に冠水を繰り返すような場所で小規模に営まれていたと想像されている。縄文時代の遺跡から出土する炭化米のDNA分析からは縄文のイネは畑作に適した熱帯ジャポニカと言う種類であるという報告もある。

 

プラント・オパールは土壌中の珪酸(水に溶けたケイ酸塩)を根から吸収し、特定の細胞の細胞壁に蓄積し作るガラス質の細胞体を指すみたいで、イネ科の植物は特に多いそうです。

 

土器からプラント・オパールが発見されたからといって、縄文人が稲作をしていたことに直接繋がりそうもないですが(たまたまということも考えられますし・・・)他に何か判断材料があるのでしょうね・・・

 

展示を見るとどこが田んぼかわからないような感じ。川のコーナーの外側、水量が増えればすぐに水を被りそうなところで人々がイネを作っている模型になっています。

 

さらに展示は続きます。 弥生の米づくり 弥生人の生業でもっとも大切だったのは、水田稲作であった。水田を作るには土地を水平に整地する必要があるので、傾斜地では小さな面積の水田しか作ることができなかった。そのため、弥生時代の水田には平坦なとちに作られた広い区画の水田と、傾斜地の小さな区画の水田が見られる。水田稲作ではこまめな水の調節が必要なので、堰などの給排水の施設も必要となる。弥生時代最古の水田である福岡県の板付遺跡は、大きな区画を持つ水田で、そこには給排水型の堰も備えられていた。このように、弥生人は当初から地形や水位に合わせた水田を作る高度な土木技術を持っていた。またすべての水田で同時に稲作を営んでいたのではなく、休耕田もあったことがわかっている。
さらに展示は続きます。

弥生の米づくり
弥生人の生業でもっとも大切だったのは、水田稲作であった。水田を作るには土地を水平に整地する必要があるので、傾斜地では小さな面積の水田しか作ることができなかった。そのため、弥生時代の水田には平坦なとちに作られた広い区画の水田と、傾斜地の小さな区画の水田が見られる。水田稲作ではこまめな水の調節が必要なので、堰などの給排水の施設も必要となる。弥生時代最古の水田である福岡県の板付遺跡は、大きな区画を持つ水田で、そこには給排水型の堰も備えられていた。このように、弥生人は当初から地形や水位に合わせた水田を作る高度な土木技術を持っていた。またすべての水田で同時に稲作を営んでいたのではなく、休耕田もあったことがわかっている。

 

こちらの展示は平地で明らかに田んぼと分かる場所で人々が作業をしています。休耕田らしきものも見えますね。

 

う〜ん・・・縄文時代から現在まで膨大な時間がかかっての今があるというわけですよね?

 

今、口にする「ごはん」。僕は今までどちらかといえばその製造過程を追っていたわけですが、さらにはそのバックグラウンドを考えないといかん!というお話です。

 

「ユーザーは技術のことなど考えずに、その利用だけを考えていれば良い」的な考えで商品が供給されたり利用されたりしているように感じることがありますけど、それでは技術そのものが廃れたり、ある人にとって本当に必要な方策を選択できなくなるということが起きる・・・そんな風に言い換えることもできそうです。

 

自分たちが食べているもの、使っているもの、もっとその裏側を知って食べたり利用したりしていかないと結局自分の首を絞めてしまう。そういうことなのでしょう。これは大変。でもそうしなくては・・・

 

一昔前にプロジェクトXなる番組が流行ったことを考えると、技術の裏側(本当は表も裏もないのでしょうが、そこはあまり考えずにそう書いています)を知ることはきっとおもしろいはずです。

 

きょうも尻切れとんぼ的に終ります。また明日!

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