今日は国立科学博物館で開催されていた、明治150年記念、日本を変えた千の技術博という特別展で見たものいろいろ・・・その番外編。特別展以外の通常展示で見たブログのテーマにぴったりの稲の展示その3です。
これまでのお話は稲には人と土地、そして社会情勢に適したものを長い時間をかけ改良してきた歴史があり、さまざまな体系と多様な品種があります。
ヒトの世界はもちろん、技術の世界にも多様性が必要なように、イネの品種についてもひとつの品種に偏ることのない多様性が必要であるから、その体系をこれからも維持して行かなくてははらないということでした。
さらに文が続きます。
縄文の米づくり
長い間、日本における稲作の歴史は弥生時代に始まると考えられてきた。しかし近年になって、縄文時代後期の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、少なくともこの時代から稲作が行われていた可能性が指摘されている。ただし、縄文時代の稲作は粗放な稲作で、弥生時代以降のような水田稲作ではなかったと考えられている。また、それは主食として成り立つような規模で行われたものではなく、河川の氾濫原のような、部分的に冠水を繰り返すような場所で小規模に営まれていたと想像されている。縄文時代の遺跡から出土する炭化米のDNA分析からは縄文のイネは畑作に適した熱帯ジャポニカと言う種類であるという報告もある。
プラント・オパールは土壌中の珪酸(水に溶けたケイ酸塩)を根から吸収し、特定の細胞の細胞壁に蓄積し作るガラス質の細胞体を指すみたいで、イネ科の植物は特に多いそうです。
土器からプラント・オパールが発見されたからといって、縄文人が稲作をしていたことに直接繋がりそうもないですが(たまたまということも考えられますし・・・)他に何か判断材料があるのでしょうね・・・
展示を見るとどこが田んぼかわからないような感じ。川のコーナーの外側、水量が増えればすぐに水を被りそうなところで人々がイネを作っている模型になっています。
こちらの展示は平地で明らかに田んぼと分かる場所で人々が作業をしています。休耕田らしきものも見えますね。
う〜ん・・・縄文時代から現在まで膨大な時間がかかっての今があるというわけですよね?
今、口にする「ごはん」。僕は今までどちらかといえばその製造過程を追っていたわけですが、さらにはそのバックグラウンドを考えないといかん!というお話です。
「ユーザーは技術のことなど考えずに、その利用だけを考えていれば良い」的な考えで商品が供給されたり利用されたりしているように感じることがありますけど、それでは技術そのものが廃れたり、ある人にとって本当に必要な方策を選択できなくなるということが起きる・・・そんな風に言い換えることもできそうです。
自分たちが食べているもの、使っているもの、もっとその裏側を知って食べたり利用したりしていかないと結局自分の首を絞めてしまう。そういうことなのでしょう。これは大変。でもそうしなくては・・・
一昔前にプロジェクトXなる番組が流行ったことを考えると、技術の裏側(本当は表も裏もないのでしょうが、そこはあまり考えずにそう書いています)を知ることはきっとおもしろいはずです。
きょうも尻切れとんぼ的に終ります。また明日!