今日は昨日の続き北海道上富良野町にあるスガノ農機の『「土の館」 土と犂の博物館』で見た、昔の写真です。
写真を眺めながら、昔は今のように生活の中にすべてがあるのではなく、ポンと飛び抜けたところに「ハレ」というものがあって、極少ない「ハレの日」を中心に、メリハリのある生活だったのではないか? という自分なりの結論に達しました。
今日はちょっと性格が違ったのでよけておいた残りの北海道の農業史の写真です。
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ちょっと話しは飛びますが、このブログ、どういうわけだか圧倒的に西のほうの人が見ているんです。水戸の人が書いた北海道のことを西の人たちが見る図式・・・「なんだか不思議なことになってるなあ」と思ったりします。
「明治前の北海道の農業」
北海道では擦文文化期(7世紀頃〜12世紀頃)の遺跡からアワ、ヒエ、キビ、ソバ、オオムギ、コムギなどの栽培植物や鉄製農具の鍬・鎌なども出土し、既にこの時代には農耕が行われていたことが明らかになっている。次代のアイヌ文化期の農耕は擦文文化期の農耕を継承・発展させたものと思われ、鉄製農具の他、擦文文化期には見られなかった畝や施肥の痕跡も認められる。しかし、シャクシャインの戦い後、松前藩は蝦夷地への鉄製利器の供給制限を推し進める。18世紀後半以降のアイヌ民族の間では鍬・鎌などの鉄製農具は姿を消し、畝も立てず、肥料も施さない粗放的な農耕が行われていたと記録されるようになる。
あ!「シャクシャインの戦い」これも確かこの間読んだ長くて難しい本庄陸男の小説、『石狩川』に出ていたような気がする・・・
ちらっと見ただけなのでよくわかりませんが、登場人物の名前のためにそう思うのか、日本書紀みたいな神話の世界の話のように感じます。江戸時代の話なのに・・・
『北海道農業を欧米型に進めた先駆指導者』
黒田清隆 九州薩摩藩
明治2年(1869)29才の時、北海道開拓使次官に就く。(東久世長官)
黒田次官は北海道の農業を欧米型の農業(面積規模を大きく、大農具を使う農業)に進めたいと明治政府に進言、認められ、明治4年アメリカに赴き、ケプロンを指導車として請願招聘し、北海道開拓に大きく貢献。ホーレンス・ケプロン (アメリカ)
明治4年(1871)67才の時、米国農務長官の地位にあったケプロン。
黒田清隆の願いと明治政府の招聘で北海道農業開拓の指導者として日本に来る。
欧米型の農業普及のための迂愚や種子家畜の輸入と普及に尽力、4年間の滞在で、明治政府に多くの進言をして貢献、のちは有力な指導者エドウィン・ダン青年に委ねる。エドウィン・ダン (アメリカ)
明治6年(1873)26才の時、明治政府の招きとケプロンの勧めで農業技術者として来道する。明治15年までの間に家畜の普及や、プラウ・ハローの技術指導を行う。羊ヶ丘牧場、滝川や静内の畜産試験場などをつくり北海道農業の基礎を築いた第一人者。
日本人女性と結婚、東京で永住し、84才で亡くなる。真駒内公園にダン記念館があります。
北海道の人たちには常識の有名人なのでしょうけど、歴史や地理にあまり興味がなかった僕はまったく知りませんでした。(あ!クラーク博士は聞いたことがあります)
アメリカからできたばかりの新しい国へ農業指導に68才でやってきたケプロンさん。農務長官まで勤めたというのにすごいことです。その後任のダンさんも含めて彼らのフロンティアスピリットが北海道に根付いちゃっているんですね。「北海道ってアメリカっぽい」と思ったのは気のせいではなく本当のことだったんです。
植民地選定と区画測設
開拓を促進するためには開墾に適した土地を選定、区画割りをし、移住者を入植させる必要があった。このため、道庁は明治19年から同22年まで全道的に大規模原野の地理、面積、土性、植物、動物、排水、用水等について調査し、植民地の選定基準は1.農牧に適し、2.地積50万坪以上、3.傾斜20度以下、4.海面上200m以下の土地を原則とした。
選定された植民地は一定の大きさに区画された。この区画は縦横300間ごとに区画道路を設定し、この1区画を中区画、中区画を9個あわせて大区画とするもので、中区画を6等分して100×150間の5町歩を小区画とし、農一戸分の面積とした。
こういうのも「石狩川」に出てたなあ・・・
開拓使の農業政策と西洋農機具の導入
開拓使は寒冷な地での稲作栽培の危険性や米の低栄養価などから、小麦を主とした畑作農業の確立を主張したケプロン等外国人技術者の意見を取入れ、米作にはきわめて消極的であった。しかし、移住者の米作、米食への強い執着などを根底に人口増加による市場の拡大、米価の高騰などから、米作は次第に進展していった。
一方、西洋農機具の導入について、開拓使は種々の導入奨励の方途を講じ、その普及に努めた。伊達や当別などに入植した氏族団体移住は、開拓使の政策を積極的に受入れて、西洋農機具の導入に力をいれ、プラウ耕の定着・普及に大きな役割を果たした。
これらも「石狩川」に出てました。
住んでいる人の開拓への思い入れはやはりが強く、ルーツというか根っこなのだなあ・・・と思います。その思い入れ、とってもとっても時間のある方は『佐藤造機デビッドブラウンDB770/880/990/1200・・・昔のトラクターカタログ』の記事のコメント欄を読んでみて下さい。
100を越えるような書き込みに、小説にあるような開拓は現在に繋がっているのだなあ・・・と、実感します。
畜力からトラクター・耕うん機へ
北海道に初めて営農トラクタが導入されたのは大正4年(1915)といわれ日本最初のトラクター導入であった。トラクター耕が進展するのは昭和25年以降で、導入の要因には、耕馬価格の低下による飼育意欲の減退、深根性作物の導入、雇用労働力の節減などがあげられる。これらの要因とあわせて、この時期には、トラクターを含む各種農機具の展示会も多く開催され、トラクターへの関心は非常に高まっていった。トラクター導入の時期は道内でも地方によって異なるが、早期に導入したのは十勝、網走地方であった。一方、耕うん機は昭和10年代にはじめて導入され、昭和25年以降に普及し始めた。
農トロってなんだろう・・・
こうやって見てくるとトラクターとか農地とか「北海道って何か違うな」っていう雰囲気、ヨーイドンで畑をつくり始めてアメリカから技術者を呼んで大機械を奨励して・・・少数の人たちの理念とか理想、そしてそれからつくられた政策によって成り立っているのかもしれませんね。
ある意味アメリカよりアメリカ。アメリカの濃縮コンクだったりして!