先日友達に誘われて、目の見ない方が日本画の鑑賞をするためのお手伝いボランティアに行ってきました。絵に興味があるとか、ボランティアを積極的にやっているというわけではなく、何となくの興味というだけだったんですが、他の人には当然の常識でも、ちょっと僕なりに印象に残ったことがありました。
事前の説明で主催者の方が何度も強調されていたことがあります。
沈黙は禁
「黙らないでください」
まあ、あたりまえです。少しは見える、かなり見えるという方もいらっしゃるようですが、もし、全く見えないようだと黙っていてはお話しになりません。
「10秒以上黙っている時間を作らないでください」
こうなると、ちょっと「どういうことだろ?」となります。
自分一人だと「そんなのムリ」となりますが、一人もしくは二人の方を大体5人くらいで担当するので、不可能ではない感じです。でも、10秒以上無音で放送事故という縛りは普段でもなかなかないこと。「どうしてなのかな」と引っかかっていました。
黙るは相手の負担増
鑑賞が終って次のアクションを待つ時間に、「黙らないでください」ということもいわれているし、それとは別に「何をしゃべってもいいです」とも言われていたので、思いきって担当した男の方に聞いてみました。
「黙るなっていわれたんですけどそれは本当ですか?」(まったく言い方ってものがあると思うんですけど、まあこんな感じで)
すると、かえってきた答えは
「まあ、そうだね」
そんなことはないよ・・・という答えが返ってくるかな・・・なんて漠然と想像していたのですが、そうではありませんでした。
聞けば、どんな当たり障りのないつまんない話でも話してもらっていたほうがいいそうです。
「お互い立ち入った話も何だから、天気の話なんかいいよね」
もし黙られると表情や態度で判断できないので「コイツつまんねえんだろうな」とか「帰りたいんだろうな」なんて思ってしまって、逆にいたたまれないと言うか、気を使ってしまうのだそうです。寂しい気持と言うか、ほっとかれるような気持・・・これではお手伝いするほうが気を使われて、本末転倒ですね。
黙っている当人にそういう気持がなくても、黙っているということはこういう効果をもたらしていたのです。好意的に考えればたまたま黙っているとか、考えていると取ることもできますが、人間は最悪のことも考えておかねばなりません。最悪を考えて行動するとなれば、相手はつまらないのだ・・・と判断しておく。それは確かに自然なことです。
さらに彼は、これはなにも目の見えない方々に限ったことではなくて、車いすの方などにも共通している心持ちなのだ・・・と説明してくれました。
喋るは相手の負担減
う〜ん・・・確かにしゃべることがなくなって、黙ってしまうと頭の中の動きは相手にわかりませんから、外から見るとすべての興味、気遣いが停止したように見えてしまいます。すると逆に相手が気を使ってしまう。自分が黙れば相手が気を使う・・・なんと今の今まで気がつきませんでした。
うまい言葉が見つかりませんが、こういう場に来るというのはその時点ですでに負担と言うか、凹んでいて、気持としてニュートラルではいられない。だからお手伝いする人間は、お手伝いする人に対して凹む必要はありませんよ、とアピールし続けなくてはなりません。そういう意味での「10秒以上黙っている時間を作らないでください」なのでした。
考えてみればあたりまえです。なんとなくそういう席に行っちゃってまずいことでした。行くんだったら気合い入れていかないとならないんだ・・・と反省しています。
そういえば気遣いのある人はみんなおしゃべりだし話上手です。なんとまあ・・・そういうことでした。
さらにはこういう話をした後もこの担当した男の方は、天気の話から時節の話、次から次へとしてくれました。もしかして僕、気がつかないうちに黙ってたのかも・・・きゃー!穴があったらはいりたい。