今日は、北海道上富良野町にあるスガノ農機の『「土の館」 土と犂の博物館』で見た、昔のプラウです。
古いといってもトラクターと違い、あまり古く見えない・・・プラウは近所で使われているのは見たことがないし、目に触れる機会がないだけにみな同じ形に見えます。そのせいもあって現在との微妙な違いである「古さ」を感じることができないのかもしれませんね。
ウィキペディアで調べてみると、プラウは犂(すき)と呼ばれ、カラスキ(唐犂)とも呼ばれ、日本では正倉院に収蔵されている子日手辛鋤(ねのひのてからすき)は、758年正月の行事に使われたと伝えられているそうです。だとするともう1200年以上前からあるということになります。
このウィキペディアのプラウの項、読んでみるとなかなか興味深いです。
この小西農機、前出のウィキペディアのプラウの項によると、
昭和45年、スター農機と「伊達の赤プラウ」の小西農機が合併、現在のIHIスターである。
とあり、その「伊達の赤プラウ」のことは
明治3年、仙台藩の一門である亘理の伊達邦成は、自費を使って家臣と共に北海道有珠郡(現在の北海道伊達市)に集団移住し、開拓使の指導を仰いで明治7年より西洋農具による畜力耕法を始めた。民間では最初となる西洋農具を使った開墾であり、当時、全道で保有していたプラウの約半数が伊達で使われていたことから、プラウ耕の先進地となった。[14][15]
その後伊達では、米国から輸入された物を参考に炭素焼きによる独自のプラウを製作、この技術を元に小西農機を設立し「伊達の赤プラウ」と呼ばれた。
とあります。「伊達の赤プラウ」何だかカッコイイ呼び名ですね!
もう70年近く前のものとはとても見えません。
操作が難儀・・・というコメントが人間らしい実感があっていいです。
ウィキペディアには高北農機㈱の記載もありました。
明治45年、三重県の高北新次郎は従来よりも深く耕せる犂を完成させ、高北農具製作所を創業した。現在のタカキタである。
高北は三重県ですが、このプラウ耕というのは北海道が圧倒的に早く、本場なんですね。
そういえば、この記事でスガノ農機の『「土の館」 土と犂の博物館』の記事は100件になりました。ずいぶん書いたものです。
・・・またしても尻切れとんぼでまた明日!