50年以上昔ここは大場村役場 へのへのもへじは何も語らない
↑ 動画(2分30秒)画面クリックでも再生します。
もちろんほとんどの人は知っているのかもしれませんが、昔の中心地
春、田んぼに水を通す前に用水路の泥上げをします。いつも泥上げをしている場所にはもともと古い建物があり、後に東大場土地改良区事務所だと知りました。さらにその後に元常澄農協だったと教わりました。そしてこの日、元大場村役場だったと初めて知りました。
ウィキペデイアで調べてみると、
このあたりは元常澄村で、その常澄村も昭和30年、1955年までは下大野村、稲荷村、大場村に分かれていたそうです。ということは今から56~7年前はここが大場の中心だったんですね。
とはいえ、先の地震で大場村役場→農協→東大場土地改良区(今は合併してしまったそうですが)の建物は壊れてしまって取り壊され、今は更地になっています。もちろん、僕の見ていた元あった建物が元役場なのか、元農協なのか、元改良区事務所だったのかわかりませんけど・・・
夢の跡には謎のものが・・・
大場村道路元
ウィキペデイアによれば
日本では1873年(明治6年)12月20日政府は 太政官日誌により各府県ごと「里程元標(りていげんぴょう)」を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じている。1911年(明治44年)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた。
設置場所は府県知事が指定することとされており、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた。東京市に限っては旧道路法施行令によって日本橋の中央に設置することと定められていた。道路の起終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていた。
現行の道路法では道路元標は道路の附属物とされているだけで特段の規定はなく、道路の起終点は道路元標と無関係に定められている。道路元標の設置義務がないため、取り壊されたり工事などでいつの間にかなくなってしまった道路元標も少なくない。
だそうです
駐在所もあったらしい