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勘十郎堀に行ってみるのだ1

水戸市大場町の島地区は涸沼川に面しています。涸沼川は涸沼から流れ出して那珂川に繋がって、それが大洗から太平洋に流れ込んでいます。だからその川でクロダイ(子供)が釣れるんですね。で、その涸沼と北浦をつなげて利根川を通って江戸まで行っちゃおうというプロジェクトが昔あったみたいなんです。

勘十郎堀って?

北浦に流れ込む巴川へ涸沼をつなげちゃおうプロジェクトらしい(茨城県土木部河川課ページより)

北浦に流れ込む巴川へ涸沼をつなげちゃおうプロジェクトらしい(茨城県土木部河川課ページより)

それが紅葉運河(勘十郎堀)というらしくて茨城県土木河川課のWEBサイトによると

江戸時代,水戸藩や奥州方面からの回船は,那珂湊から涸沼川をさかのぼり,涸沼の海老沢や網掛に入り,陸揚げされた荷物は,小川と下吉影の両方面に分けて陸送され,霞ヶ浦・北浦を経由して江戸に運ばれました。
 水戸藩は,宝永4年(1707)浪人,松並勘十郎を起用して,海老沢から現在の鉾田町紅葉地内の巴川までの間に紅葉運河(約8km)を,さらに大洗町大貫町の海岸から涸沼川までの間にも大貫運河(約1km)を開削する計画をたて実行しました。
 この計画は,那珂川と涸沼,北浦,利根川を直接結んで,外海より安全な航路を確保し,その航路を利用する舟から通行税を取り立てて藩財政の立て直しにあてようとするものでした。
 しかし,工事は難航し,地元をはじめ水戸藩内の各地から領民を強制的に集め,ただ同然で過酷な労働に従事させ少なからぬ犠牲者も出したと伝えられています。その負担に対して宝永6年(1709)領内全域の農民一揆が起こり,そのため計画は失敗に終わり,勘十郎ら関係者は獄死しました。
 運河は,この勘十郎にちなんで勘十郎堀と呼ばれましたが,まもなく廃絶されました。

とあります。

そういえばこのあたりでも長老が子供の頃は茅を船で運んで色々なところに持っていったって言ってたっけ。

涸沼川、石川川を使ってモノを運んだらしい。

涸沼川、石川川を使ってモノを運んだらしい。

とはいえ江戸まで・・・これはキツイ

勘十郎堀 ネットで見つけたルート図

勘十郎堀 ネットで見つけたルート図

う〜ん・・・昔は道が悪いか整備されていなかったのでしょうか? なんだかみんな船が好きですね。確かに川は昔からそこにあって、わざわざ作らなくても良いので利用しやすかったというのもあったかもしれませんが、このルート図によれば利根川は逆走です。川の流れに逆らって漕ぎ上がっていかなくてはなりません。なんで?

よくよく考えると

この計画は東北から荷物を積んでやってきた船を内陸の川を通そうという計画です。逆にいうと昔は川を通るような船で銚子沖を回って江戸まで行っていたということになります。

このあたりで見る川船のような船で(まあもうちょっと大きいのでしょうけど)外海を走るのは相当危険だったはず。当時は衛星も天気予報もなんにもないんですから・・・相当犠牲が出たのではないでしょうか? それからすれば川は穏やかだし、イザとなったらすぐに陸に上がれそう。

陸路で運ぶよりはたくさん荷物を運べたろうし、船の交通が人気でそのために運河を作ろうとしたのでしょうが、道路に比べて運河は水を通さなくっちゃいけないので大変です。

道なら上り坂、下り坂にしちゃえばいいところをぜ〜〜〜んぶぶち抜いてちょっとだけの勾配にしなくちゃなりません。作るとなったらこっちのほうがハードだったんで挫折しちゃったんでしょうねえ。

今日はイントロで終わってしまった。脱力の次号を待て!

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コメント

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2014年3月18日 12:51 PM | 磯山欣成

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