大場町島地区では「島茅」と呼ばれた、直径せいぜい3ミリか4ミリで背が低め、細くてしなやかでとっても丈夫、茅葺き屋根に最適だった茅を生産していた。地域には「茅手」(かやで)と呼ばれる屋根葺き職人や、茅手を束ねる親方もいて、これで屋根を葺くととってもきれいだった・・・という話を聞きました。
「島茅」は、Sさんが言うには「ヤワラ」(野原と書くのではないか?という話です)にたくさん栽培されるように自生していたもので、今でも生えていると思う・・・と、いうことなので見つけたら紹介したいと思います。(ただし、話している人たちの年が年ですので、「最近」は最低でも10〜20年前。ですから「今」と言われても、これがまったくあてにならないのですが・・・。)
ススキや、葦で屋根を葺くこともあった中(これらは雨が漏ったり、長持ちしなかったりしたそうですが)、丈夫で長持ちの「島茅」は評判で、Sさんに言わせれば、「船に満載して、水府橋(水戸のお城があったあたり)まで持っていったりしたんだよ」とのことでした。
20年にいっぺんの屋根の葺き替えや、さらにある一部の補修、また、一軒の屋根には膨大な茅が必要だったこと、家の数などを考えると、当時としては地域の茅は地域でまかなっていたはずで、何キロも運ぶというのは今で言う輸出くらいのインパクトがあるのではないでしょうか。
ゆうに10キロ以上!もしかして泊り仕事?
荷物満載の重い船で那珂川をさかのぼるのですから、相当時間がかかったのではないか?と、想像されます。
そして葦のほうは?
そして、葦のほうは(こちらは今でも簡単に見ることができます)ヨシズを編んだりするのに使われていて、昔はどこの家でもヨシズを編んでいて(たぶん販売したのでしょうね)、子供たちは葦の薄皮を剥くアルバイトに精を出したそうです。
「島茅」もそうだったそうですが、大量に使うためには生えている葦を刈る権利を「ヨシコ入札」呼ばる入札で買い、刈って使ったのだと今度はMさんが話してくれました。(このお金は地域に入ったのかな?)
そんな葦を刈る時のスペシャルグッズ
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良く見直してみたら茅葺き屋根じゃなくて、バナナの葉葺き屋根でした
kobbasanさん
こちらも雨に振り込められて、晴耕雨酒、ネトネトネト(net)です
地域のみんなもつい最近まで家(うち)も茅葺きだった・・・というのですが
その最近は昭和40年代〜50年代と考えて良さそうですね。
うわ〜!想像できます
地震の避難生活で役に立ったラジオの記事で紹介した場所は
電気もガスも何もないところ 家は茅葺き屋根で、スコールの後kobbasanさんが言うように湯気が上がっていたし
夕餉の支度をしていてもやはり屋根から湯気が立って生きているようでした
特に、夕立が来て、その後お日さまが沈む前にちょっと顔を出して、茅葺き屋根から蒸気が上がって・・・・きれいですよねえ
このあたりも、それからkobbasanさんのあたりもきれいだったでしょうね
また、船での交通の話
運河がいくつかあったそうですね
ここから江戸まで、沼や川や運河をつないで川船で行けるなんてワクワクします
江戸時代に行ってみたいなあ
家(うち)も昭和40年代まで茅葺屋根で、夕餉(ゆうげ)時や、雨上がりは蒸気が立ち屋根が生きてるようでした。上等な『島茅』ではなく、近場の茅で太く粗くごつごつしていたと思います。偕楽園好文亭やどっかの茶室で見た屋根は、繊細でしなやかでしたのでこの様な『島茅』の類が使われたんですね。
カムイ伝かカムイ外伝の二部の話に、那珂湊の船問屋街から、追忍の目をさけ夜中のみ動き、江戸に行く話しがありました。
那珂川と涸沼川の分岐をnoraさんちの横を通り涸沼に入り、この辺か北浦で人身大の大ゴイと格闘して糧として霞ヶ浦から牛久沼、野田、利根川、運河を使って江戸へのコースと記憶してます。外海が荒れていても行けますから、あったとおもいます。
今日は田んぼアゼの草刈予定でしたが、晴耕雨酒どくどく…です。(晴れたら…たま~に晴耕雨読を使います。)