水戸のお堀の桜を撮るついでに見てきた弘道館。さらっと流して写真だけ撮ってきたのだけれど、写真に写っていた説明書きを読んだら結構おもしろいのでした。
カメラの使いかた、あとから気がつくこういうメリットもあるんですね。
要石歌碑
歌碑脇の看板には・・・
要石歌碑
鹿島神宮の要石になぞらえて建てたこの歌碑はの自選、自筆によるもの。
大和の道は万古不易の大道で日本人の実践すべきものであることを示された。
歌
「行く末もふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要(かなめ)なりける」
とあります。
この歌碑は要石をかたどっているそうですが、見えてる部分は少なくてもものすごい部分が土に埋まっているそうです。とはいえ、こんな形(断面図だと思いますが)を埋めるのは大変な作業・・・
そして、これを掘るというお話があるそうなんですが、先の見えない作業は人の心をいつの時代でも砕くみたいで、ずっと掘り続けても途中で諦めてしまうぐらいのものだんだそうです。
そういえば地面に埋まっている石、グラグラしているようでも、いざ引っこ抜こうとするとかなり苦労しますもんね。抜けそうでなかなか抜けない歯なんかもそう。
要石、ウィキペディアに記載がありました
要石(かなめいし)は、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮と千葉県香取市の香取神宮にあり、地震を鎮めているとされる、大部分が地中に埋まった霊石。
伝承
地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいは竜を押さえているという。あるいは貫いている、あるいは打ち殺した・刺し殺したともいう。
そのためこれらの地域には大地震がないという。ただし、大鯰(または竜)は日本全土に渡る、あるいは日本を取り囲んでいるともいい、護国の役割もある。なお、鹿島神宮と香取神宮は、日本で古来から神宮を名乗っていたたった3社のうち2社であり(もう1社は伊勢神宮)、重要性がうかがえる。
鹿島神宮の要石は大鯰の頭、香取神宮の要石は尾を押さえているという。あるいは、2つの要石は地中で繋がっているという。
要石を打ち下ろし地震を鎮めたのは、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(表記は各種あるが鹿島神社に倣う。通称鹿島様)だといわれる。ただし記紀にそのような記述はなく、後代の付与である。武甕槌大神は武神・剣神であるため、要石はしば剣にたとえられ、石剣と言うことがある。鯰絵では、大鯰を踏みつける姿や、剣を振り下ろす姿がよく描かれる。逸話
古くは「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」と詠われている。江戸時代には、この歌を紙に書いて3回唱えて門に張れば、地震の被害を避けられると言われた。
1255年(建長8年)に鹿島神宮を参拝した藤原光俊は、「尋ねかね今日見つるかな ちはやぶる深山(みやま)の奥の石の御座(みまし)を」と詠んでいる。
古墳の発掘なども指揮した徳川光圀は、1664年、要石(どちらの要石かは資料により一定しない)の周りを掘らせたが、日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかった。
手水
手水の作法
1:初めに右手で柄杓を取り、水を汲んで左手を洗い、
2:次に右手を洗い、
3:次に左手に水をため、
4:次に口をすすぎ、
5:次に左手を洗い、
6:最後に、柄杓を立てて柄に水をかけて洗い納めます。
古井戸
ああ・・・時間がなくなってきちゃった・・・仕事をちょっと片付けて、午後またアップします。