江戸時代の土木工事遺跡、オーバーに言っちゃうと日本のスエズ運河である近所の勘十郎堀のお話その4です。昨日はお経の文字を一個ずつ書いた石が埋まっていると思われる塚のところまででした。
いかにも埋まってそう
あたりを見回すと・・・
手入れの行き届いたお庭で、調べてみるとオーナーのWEBページがあって趣味のそば打ち小屋(?)のようでした。無断引用になっちゃいますけど、ここに独自の記載があり、長くなっちゃいますけど引用します。
九丈庵の由来
宝永三年(一七〇六)、財政再建のため、水戸藩に登用された松波勘十郎は流通経済の発展を図って、涸沼と北浦を結ぶ運河を開削しようとした。これを松波の名をとって「勘十郎堀」という。
当時、東北地方からの荷物は那珂湊から涸沼川を遡行し、涸沼沿岸の海老沢河岸から陸上輸送で、巴川の下吉影や園部川の小川に送られ北浦・霞ヶ浦を舟で下って潮来に運ばれ、さらに北利根川・横利根川を遡行し、関宿から江戸川を南下して江戸に運ばれた。
しかし、この内側廻り水運には、涸沼と巴川との間約一〇Kmを陸路駄背によらなければならないという弱点があった。
そこで松波は、海老沢河岸から紅葉村地先巴川までの運河を開削し、これにより通船税の増収と領内の流通経済の活性化を図ったのである。
運河のコースに当たる海老沢・城之内両村をはじめ奥谷・生井沢など茨城地方の水戸藩の村々の農民たちも、掘削工事にかり出され多大な負担を強いられた。
しかし、それにもかかわらず、工事はついに完成せず、宝永六年(一七〇九)正月の松波の罷免によって未完のまま中止された。
ここから東約一〇〇mの勘十郎堀の場所は、開削工事の中では一番の難所といわれ、九丈堀といわれる。(一丈は約三m)
九丈堀から掘り上げた、土砂を置いた場所が「砂置」で、現在も字名として残っている。(この場所の南側)
勘十郎堀の掘削のために、かり出された人々の苦しみを、物語るものに六部塚の供養塔がある。六部塚は、城之内字砂置にあり、その中腹に正徳元年(一七一一)の供養塔が建っている。
現在なら機械力等でたやすく掘削できるが、人力で九丈も掘った当時の農民の苦労に深い哀悼の意を込め、九丈庵と命名する。平成七年三月吉日 庵主
う〜〜ん・・・27Mも人力で掘ったというのです。話半分でも13Mの深さで・・・
確かにこの場所は小高くなっていて、多分最短距離を取ったのでしょうが、グーグルマップを見てももう少し西回りに巻いたほうがいいんじゃなかろうか?と思われるような所です。
途中でやめるんだったら、10キロを荷物を背負って歩いてお金をもらったほうがいいです。辛い工事に犠牲者が出たとしたら、その人たちはちょっと浮かばれないですね・・・ただ工事によって更に犠牲者が出るというのも悲しいことだし、なんだか近年の巨大公共工事みたいでなんとも言えないです。
ついに勘十郎堀へ
確かにずいぶん降りるので九丈堀というのも頷ける。平成7年の茨城町史跡の看板も倒れて無惨に横たわっている。茨城県の資料を見ると整備当時は多分きれいに散髪して、多少明るくこざっぱりとしていたみたいだけど、うちのまわりと同じで、上の道路からどんどんとゴミが降ってきてかなり脱力史跡と化しているのであった。
泥の中から自転車のペダルが顔を出している。もしかしたらドンドコいろんなものを谷底に放り投げるヤツがいて、底なし沼にはまだ色々沈んでいるかもしれない・・・・バチが当たるぜ!?マジで。
初めて線で見た
通りがかりに勘十郎堀の切り口を見ることはあったけれど、今回初めて「線」として意識して見ました。掘に沿って視線を送ってみるとグチャグチャの沼地とはいえ通路、道として見えてきます。
少し辿ってみましたが、地図と照らし合わせながらぐるりと見回すと、今まで運河(道)として見えなかったちょっとした地形、谷間が、田んぼや車道に分断されていてもちゃんと運河として繋がって見えだしてくるから不思議です。
これが陸上の道なら今でもクルマが行き交っているはずですし、旧道のさらに旧道になってしまったとしても通る人が全くいなくなるということはないでしょう。
でも悲しいことに船の交通の発展はクルマの発展ほどには進みませんでした。これでは船でも歩いても行けません。脱力というよりは何だか切ないなあ。