以前土地の記憶は植物に投影される・・・(昔道だったところだけ稲の色がわずかに違っていたのです)みたいな記事を書いたことがありますが、昨日のコメントでそれに地名と地形、それから人名も加えなくちゃならないなあ・・・なんて思いました。
確かにここらへんには、「あしかわ、よしかわ、おぎや、おぎぬま」さんがいます。きっとこれはそういう植物が(しかも有用な)生えていて利用していた名残なのでしょう。そしてもしかしたら今は何もなくても放っておけばそういう植物がそのうち生えてくるということを意味しているかもしれません。
また、この間の台風15号で、水が出たときなぜかウチの前の道路だけ(わずか10数メートルだけ)水が浸りました。前にMさんに「僕の家あたりは低いので水が来るぞ」と言われたことを思い出しました。水ですから、本当に素直に1ミリでも低いところにやってきます。
普段クルマで走っていて、まったくの平らだと思っていても、土地の記憶として数ミリでも低ければ確実に水はそこへやってくる・・・というわけです。これはその土地の記憶は地形にわずかでも残されているということではないでしょうか?
それに加えて土地の名前・・・少年向けの冒険小説などには、無人島に流れ着くと主人公は色々な場所に名前を付けます。たとえばぐるっと回ってそこが小さな島だと分かった場所に「絶望の岬」とか、食料調達場所に「魚取りの渚」なんて名前をつけたりします。
アイヌの地名などはそういう感じが出てていいなあ(たとえば知床という地名は・・・「地の果て」とか「岬」を表しているそうですよ)・・・なんて昔から思っていたんです。
ところが昨日のコメントにあるように「荻窪」という地名・・・オギが茂っている窪地という意味なのでしょう。日本語の地名だって同じだったんです。深く考えていなかったので気がつかなかっただけでした。きっと荻窪は、微妙に低くて僕のウチの前みたいに水が来たらなぜか溜まっちゃうのでしょう・・・平に見えても。
どんなに開発されても、昔の土地の性質と言うか持っているモノは、地名や住んでいる人の名前や植物に表れる・・・アスファルトを敷いてしまえば植物はなくなりますし、人も引っ越してしまえばわからない。でも、わずかな地形と地名にそれが残っている。
市町村合併などや、住所の簡素化の目的などで旧町名をわかりやすく新しくすることがありますが、わかりやすく便利になる反面、土地の記憶が一つ失われてしまうんですね。