勘十郎堀に行ってみるのだ2

引っぱるほどのものじゃ全然ないんですけど昨日のイントロの続きです。

それは江戸時代、奥州や水戸からの荷物を船で海岸線を銚子廻りで運ぶ時に、途中でおいでおいでをして那珂湊から那珂川に引込み、涸沼川、涸沼、そして北浦、利根川を遡って江戸川でお江戸に回ってもらうというのが船頭さんにとって魅力的かどうかというお話でした。

いけるじゃん!光圀の甥っ子綱條!そして松波勘十郎!

よく見ると距離が違う!!
よく見ると距離が違う!!

銚子廻り房総廻りが危険だったのもあるかもしれないけど、距離が運河廻りのほうが短い!

大きくみると、大貫運河と勘十郎堀合わせてたった(←すんません)9キロ運河を作るだけで危険を回避した上に房総半島一個分走らなくていいんです。これなら日にちもずいぶん短縮されたでしょう。なんだか規模は小さいけど、房総半島をアフリカ大陸に例えればスエズ運河みたいな感じです。

これならルートとして十分魅力的で通行料も頂けるはずです。

ウィキペディアによれば

1690年頃、水戸藩は多額の借金を抱えて財政が破綻寸前となっていた。因みに水戸藩は藩祖・頼房の代は25万石、光圀の代には28万石に加増されたが、綱條の時代には35万石に加増されていた。だからと言って財政が良かったわけではない。むしろ、財政は窮乏して藩士の上納金で辛うじて遣り繰りする自転車操業を行なっていた。

とあり、なんだか現在の水戸藩(水戸市)と同じような状況になっています

机の前の指揮官は「いけるいける!」と膝を打ったに違いありません。ただやっぱり上から、遠くからみるのと実際その場で状況に対峙するのとではずいぶん違います。これ、2万5千分の1の地図の等高線を見て「いけるいける!」と思って行ってみても実際の高低差に脱力するのと似ています。

我々にはグーグルマップがある

前々から勘十郎堀があるのは知っていましたが、道を走っていて勘十郎堀を横切るという点の出会いでした。ちょっとコイツを運河視点の「線」で眺めてみようという友達の提案です。

こういう場合、普通の地図ではどこが運河なのかわからないですど、現在の我々にはグーグルマップがあります。土地には土地の記憶そしてそれは植物も覚えている・・・と、前にわかっているのでその痕跡は地図と航空地図を照らし合わせればわかるはずです。

グーグルマップはそれにぴったりではないですか!

この辺だとあたりを付けて表示してみます
この辺だとあたりを付けて表示してみます
航空写真なら・・・見える見える!これに違いない
航空写真なら・・・見える見える!これに違いない

スタートが道の脇ですけど、このあたりはずーっと堤防の内側に田んぼが広がっています。きっと田んぼは堤防を築いて干拓したものじゃないかな? それで江戸時代は道のあるあたりが昔の涸沼の湖岸だったのだと想像がつきます。これも土地の記憶です。

よっしゃ!これで辿ることができるかもしれないぞ・・・と思ったのでした。

書いているうちに長くなってしまった。より出がらしになった脱力の次号に続く・・・

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“勘十郎堀に行ってみるのだ2” への2件の返信

  1. OPさん
    おはようございます

    エンジンが無い時代なら、水に浮かべて運ぼうという発想は良いですが、
    勾配がキツい島国で運河はかなり無理があったはずですよね。
    当時、どんな過酷な作業になったのか想像もつかないです。

    そうですよね
    大変なのは間違いないです

    ただ、なぜそこを通す?というようなルートなんです
    海の近くでそんなに高低差はないはずなんで
    もっとラクできたんじゃないかって・・・

    もしかしたら年貢が取れなくなるし
    田んぼの地権者だって納得しないだろうから
    低い田んぼに水路を通せなくて
    山削っちゃおう・・・って話になったのかもしれません

  2. エンジンが無い時代なら、水に浮かべて運ぼうという発想は良いですが、
    勾配がキツい島国で運河はかなり無理があったはずですよね。
    当時、どんな過酷な作業になったのか想像もつかないです。

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